Gene Over│Last Episode閉環 10収束

 暗闇を初めて切り開いた人間は、一体何を思っていただろう。
 恐怖はなかったのだろうか。
 今、自分はとてつもない恐怖にかられている。
 リフィーシュアは操縦桿を握り直した。もう何度目だろう。グローブの下の手の平が汗でびっしょりになっていて気持ち悪い。
「熱源探知。5060m先、宇宙船あり。回避…」
 操縦桿を倒す。衝撃なし。
 まだ…まだ死んでいない。
 感覚はまだ死んでいない。
 偵察艇の狭い船内。一緒に乗っているゼファーとデリスガーナーも緊張した面持ちで彼女の操縦に注目していた。
 ラニーによってばらまかれたウイルスによって侵食された宇宙船はほとんどコントロールを受け付けないままに宇宙空間に漂っている状態であった。それに加え、ブラックホールの出現によって新しい重力場が形成されつつあるようで、何隻かの宇宙船はそれに飲み込まれ、残っている船も不規則な動きを繰り返している。その間をぬって船を操縦することは予想以上に困難なことだった。
「姉さん、あれがカセムだ」
 ほとんどレーダーの利かない中、ほぼ黒に近い宇宙空間を睨んでいたゼファーが不意に窓の外を指差す。リフィーシュアもおぼろげながらその姿を確認する。
「60秒後まで…障害物なし。よし、近づけるわ」
 最大船速でカセムに近づく。微かに残った明かりを頼りに並行飛行する。
「当たり前だけど停泊用ハッチは閉まってるわ。どうやって中に入るのよ?」
 カセムの表面を眺めながら、リフィーシュアが不安げに問いかける。
「入り口を作ればいいんだろ?そこの継ぎ目の所で停止してくれ」
 どこからともなく宇宙服と工具を引っ張り出しながら、デリスガーナーが明るい声で答えた。
「入り口…って、まさか穴でも開ける気!?」
 言われた通りに停止したものの、振り返って工具を見た瞬間、リフィーシュアは声を上げた。
「違う違う。軍の船には、補給の時に他の船と隣接して船同士で連絡させるための特殊な扉があるのさ。その継ぎ目が目印。今時人力でこじ開けるっていうのは面倒だが…」
 そう言うとデリスガーナーは宇宙服を着始めた。ゼファーが呼び止める。
「僕が行きます。第六艦隊とは連合艦隊を解消してしまったのですから、これ以上ダスローの方にご迷惑をかけるわけには…」
「星(くに)なんて関係ないですよ。それに…こういう時のためについて来たんだから」
 宇宙服を着込み、必要な道具を揃えると、デリスガーナーはそのまま出て行った。
 船の窓越しにリフィーシュアとゼファーは彼の仕事を見守った。さすがにこういう仕事には慣れているようで工具を色々と使い分けながらカセムの連絡通路を閉ざしていた扉を開いた。続いて自分達の乗ってきた船を扉とドッキングさせる。
 全ての作業が終わると、デリスガーナーは戻ってきて宇宙服を脱いだ。簡単そうに仕事をこなしていたものの、体中の汗が大変な作業であったことを物語っていた。
「何なんだあれば…重力が色んな方向から発生している。思ったよりも…体力使ったな」
 デリスガーナーはそう言ってシートに座り込んだ。
「何よ、特殊戦闘員が聞いて呆れるわね。…って言いたいところだけど、私も何とか目的地まで到着出来て安心したら、腰が抜けちゃったわ…」
 操縦席から立ち上がれず、リフィーシュアがゼファーに苦笑いする。ゼファーは頷いて二人を見た。
「二人共、無理させてごめん。ここからは僕一人で行くよ」
 窓の向こうに明かりが見える。カセムの内部で唯一きちんと灯っている明かり。おそらくあそこを目指していけばいいのだろう。


 生きているように音を立てるコンピュータ。その真ん中でラニーは宇宙の終わりを眺めていた。
 全て消える。
 ゼロに還る。
 今までの歴史を、ゼロに―。
「…怖い?」
 足音を聞きつけて、ラニーはゆっくりと振り返った。シェーラゼーヌがコンピュータルームの入り口に立っていた。彼女はラニーを悲しげに見つめている。
「怖がっているのはあなたです…自分の存在が空っぽなことが怖いから…他人を巻き込もうとしてるだけです」
「…………」
 ラニーはしばらくシェーラゼーヌの金色の瞳を見つめていた。ふと俯くと小さな声で笑い出す。
「やっぱり…同じでないとわかってもらえなかった…。牢獄のようなフォルシモの中でどんなに叫んでも、誰も気づいてくれなかった…恐怖を…ぐらつく足元を…」
 ラニーは笑いながらシェーラゼーヌに近づいた。
「わかって…私を…」
 おぼつかない足取りで近づくラニーの手には護身用の拳銃が握られている。
「私を見て…私の声を聞いて……私を、認識して…」
 狂った女が手を伸ばす。
 そして、一発の銃声が全てを閉じた。


 床が揺れた。ゆっくりと形成されつつあった重力場に、ロードレッドも飲み込まれようとしていた。
 足元のバランスを崩したメティーゼが一瞬だけ船とのリンクを切断すると、エラーメッセージを表示するモニタが次々と明滅し始めた。
「くっ…世話のかかる機械なんだから…っ」
 言うことを聞かない同胞に対して舌打ちしながら、彼女はすぐに姿勢を正した。
「9929と9931だ」
 一人でずっとペンを動かしていたシェータゼーヌが突然顔を上げてそう告げる。メティーゼは一瞬反応に遅れたが、すぐに近くに存在したウイルスの内部ファイルを抜き出すとコアルティンスの端末にそれを送信した。コアルティンスが端末から数字を入力する。
「…『影ハ光ニトッテカワラレソノ存在ヲケス』…?」
 数字を入力して表示されたメッセージをコアルティンスが読み上げる。読み上げられるのを待っていたかのようにゆっくりとメッセージが消えると全てのファイルが急速に回復し始めた。警告が消え、余分なモニタが消える。宇宙船の制御が人間に返され、航宙士は慌てて船の体勢を立て直した。
「…この船の機能は全部復旧したみたい」
 数分後、メティーゼはそう言って目を開けた。コアルティンスはシェータゼーヌが導き出した数字を眺めて声を上げた。
「素因数分解…!」
「ああ。鍵を暗号化するために二つの素数を掛け合わせて大きな非素数にするっていうのは昔からよくやられてる手法だからな」
「そうは言っても、八桁の非素数を素因数分解するなんて…どうやってやったんですか?」
 計算過程の用紙を見ながら好奇心からか、脅威と感じてか、コアルティンスが尋ねるとシェータゼーヌは企業秘密だと小さく笑った。


 迷いは無かった。
 ただ…必死にトリガーを引いていた。
 彼女は一瞬自分を見て笑ったような気がする。それは感謝だったような、それとも愚かなものを見る目だったような。
 カセムの電気系統が復旧する。明滅していた室内灯がはっきりと明かりを灯した。
「あなたの感じる孤独、恐怖…私にも理解できます…。多分、私にしか…理解してあげられなかった…」
 頭から血を流し物言わぬラニーに、シェーラゼーヌは声を掛ける。もう、答えない。
「……っ……」
 涙が溢れる。
 殺した。
 私の手で。
 同じ存在を。
 自らが生きるために。
「……やはり、私の存在は間違っているんですね…」
 シェーラゼーヌは震える右手で握った銃を、ゆっくりと自分の頭に持っていった。
「意味のない、命。そんなものないと…信じていたかった…。自分から、目を背けたかったから…。私の存在がシェータを傷つけていること…認めたくなかったから…でも…でも……」
 ゆっくりと、指に力を込める。
「副司令!!」
 突然扉が開かれた。空色の髪の青年が駆け込んでくる。シェーラゼーヌがトリガーを引いたのと、駆け込んだゼファーが彼女の手をはたいたのは同時だった。

 パアンッ…

 乾いた音が室内に響き渡った。
 弾丸は天井の照明を打ち抜き、細かく割れたガラスが二人に降り注ぐ。照明が壊れ、壁に取り付けてあった非常灯が淡い光を放ち始めた。
「はあ…、はあ…」
 全力でここまで走ってきたゼファーは荒い呼吸でしばらく床に両手をついていた。シェーラゼーヌは驚いて彼を見つめている。先ほどまで自分が握っていた銃は弾かれて床に転がっていた。
「…司令……」
 呆然としていたシェーラゼーヌがぽつりと口にする。ゼファーは顔を上げて彼女に笑いかけた。
「こんなに走ったのは…久しぶりだよ。情けないね…」
「なぜ、助けたんですか…?こんな…私なんて…」
「…簡単なことだよ」
「え?」
 ゼファーはそっとシェーラゼーヌの肩を抱いた。彼女は拒まず呆然としたまま、ただ彼に身を任せる。速い鼓動が伝わる。
「君に、生きていて欲しいから。…それだけだよ」
「…………っ…」
 シェーラゼーヌは肩を震わせ、涙を流した。
「私の、存在は…間違いなんです…。本当は、生きていてはいけないはずの……ちっぽけな…命なんです…。それでも、今まで…すがるように生きてきました…怖かったから…役立たずだからと、処分されたく…なかったから…」
 本来は禁忌であるはずの存在。プロティア政府から監視され、その意思にそぐわなければ処分されるのではと恐れる毎日。
「始めから間違った存在なんてないよ…問題はどうやって生きるか。君が正しく生きようとしている姿を、僕は知ってる。皆知ってるよ。第五艦隊の皆も、シェータさんも…皆、知ってるよ」
 カナドーリアから移住した際、廃棄の提案をしてきた宇宙連邦政府。それを断固として阻止したオリジナルと養父母。偽りの家族でも、彼らはシェーラゼーヌの存在を間違いとは呼ばなかった。いつも温かく彼女を見守ってくれた。
「だから…君はここで終わっちゃいけない。皆、君に胸を張って、自分は確かな存在なんだと言っていて欲しいんだよ」
 ゼファーはそう言ってシェーラゼーヌの目を見た。不安定なのは自分も同じ。プロティアに生まれた自分も同じ。大切なのは、自分は人間だ、自分は生命だと自己を定義する意志。
「……アーベルン司令…」
 ゼファーの胸に頭を倒し、シェーラゼーヌはすすり泣いた。ゼファーは彼女の頭を優しく撫で、天井を見上げた。
「…帰ろう、皆の所へ…」
 彼女は泣きながら小さく頷いた。


「エンジンシステム復旧」
「艦内、電気系統復旧」
 巡洋艦イオニスの艦橋も、徐々にウイルスの影響が消え去ったことで冷静さを取り戻していた。カセムから離れた場所を航行していたためか、今のところ重大な事故は起きていないようである。
 しかし、艦内の様子を調査していたコンピュータから突然警告が発せられたのを聞いて、艦橋は一瞬静まり返った。
「何だ?」
―甲板、生命反応―
「こんな時に誰が出ているんだ。連れ戻せ」
―船、励起反応―
「船?シレホサスレンの、拿捕した船のことか?」
―反応増大―
「一体何が…」

 レイトアフォルトはシエスタと向き合っていた。
 悲しそうな咆哮を上げるシエスタ。
 終わりを、全てを知っている―。
「いいんだ、シエスタ。それでも僕は―」
「レイト!!」
 よく響く女性の声。レイトアフォルトが振り向くと、エルステンの方角からケルセイが姿を現していた。ニーセイムが通信席で立ち上がり、レイトアフォルトの名を呼んでいる。
「レイト!無事で…無事で良かった…」
 涙を拭いながらニーセイムはレイトアフォルトを見ていた。レイトアフォルトは彼女を見て優しく微笑むと、手を伸ばして一点を指差した。ディールティーンが眠っている部屋を。
「…………」
 やがて彼が手を下ろすと、シエスタが緑色に発光し始める。ニーセイムは驚いて通信席の窓を叩いた。
「レイト?何をする気なの!?シエスタだけじゃ何も…」
 ニーセイムは不意に動きを止めた。
 レイトアフォルトが微笑んだままゆっくりと口を動かしている。
「…リエ…ラ……」
 かすれた声でニーセイムはレイトアフォルトの唇を読んだ。ぽつりと呟くようにその言葉を残すと、彼はゆっくりとシエスタに乗り込み、消えるような速さで目の前を去っていった。

「…Reairaym(さようなら)…」