Gene Over│Last Episode閉環 11閉環

 人工血液が流れる。
 青白い肌。
 それでもルドはE-ユニットに手を差し伸べ続けた。
―…イブ、が…―
 チアキが呟く。生気を失ったように。
―感情システム…中枢―


 肉体を越えた次元。
 空色の髪。
 少女を取り巻く無数のデータ。
 起動者を追い詰めるデータ。
 人間の記憶。歴史。
「もう…嫌…全部、消して…」
 セフィーリュカは両手でそれを弾き飛ばす。弾き飛ばしたつもりでもそれらは残る。無限のパラドックス。
「助けて…」
 祈りにも似た言葉に、白い手が添えられた。
 自分以外の意識。データではない存在。
 セフィーリュカは添えられた手の感触に目を開いた。空色の瞳で赤い瞳を覗き込む。
「……ルド……?」
「セフィーリュカ…やっと、僕を見てくれた…」
 セフィーリュカの周囲からデータがどこかへ流れていく。彼女の周りは元の暗闇に包まれ、危うく足を踏み外しそうになるのをルドが支えた。セフィーリュカは震えながら耳を塞いだ。
「…声が…怖い…怖いよ…」
 全てを壊せと叫ぶ声。崩壊を望む、元起動者の声。
「大丈夫。声に惑わされないで。意識を…僕に任せて…」
 ルドはそう言うとセフィーリュカの額を自分の額につけさせた。肉体ではないのにどこか温かい。
「生きてる…私も、ルドも…」
 心地よい感覚に身を任せ、セフィーリュカは瞳を閉じた。


 ルドが倒れないのを見て、アルソレイは再び銃口を彼に向けた。カオスはそれを見て走り出す。体当たりして狙いを逸らそうとしたが、横からアーリアがカオスの腕を拳銃で撃つ。一瞬痛みに顔を歪めたが、カオスはそのまま反対側の手で銃を構え、ルドを撃とうとしているアルソレイの手を撃った。アルソレイの手から銃が離れる。
「ちっ…」
 手から血を流し、アルソレイは一瞬弾き飛ばされた銃を見遣った。カオスはその隙に体勢を整えようと立ち上がりかけ、背後で撃鉄を起こす音を聞いた。アーリアがカオスの頭に拳銃を突きつけていた。
「残念でしたね」
 引き金に指をかける。
 しかし、その引き金は引かれなかった。パシッという軽い音と共に、アーリアが前のめりに倒れた。
「よっしゃ、命中!」
 部屋の入り口で軍服を着た赤い髪の青年、リゼーシュが場違いなガッツポーズをした。後からやって来たチアースリアが慌てた様子で室内に踏み込む。
「殺してしまったのか?」
「いやいや、もちろん麻酔銃っすよ」
 リゼーシュは明るい表情で持っている銃をくるくると回す。チアースリアは溜め息をついたが、そのまま鋭い視線をアルソレイに向ける。
「そこまでです、フォイエグスト行政委員長。あなたを連邦反逆罪で逮捕する」
 チアースリアの手には電子ロープの発射装置があった。リゼーシュも真剣な表情で麻酔銃を構えている。
「ふっ…貴様らのような若造に遅れを取る私ではない!」
 アルソレイは新たに武器を持ち構えると二人に向かって走っていった。カオスも立ち上がり、二人と共に応戦しようとしたが、鈍い光を放ったチアキが彼を呼び止めた。
―頼む、No.44を…―
「………」
 胸から血を流し、それでもE-ユニットに手をかざしているルド。チアキが弱々しく光を発する。カオスはゆっくりとルドの体を横たえさせた。ルドはE-ユニットの接続端子を離さなかった。
―良いのだ。それが本来のNo.44の姿…意識を持たぬ機械としての…Ωシステムの完全体…―
 チアキの声は小さくかすれていた。肉体があれば、涙を流していたのかもしれない。後半は武器の音でかき消された。
 カオスが振り向くと、チアースリアの軍服の袖が破れているのが見えた。連邦軍一と言われる猛将。アルソレイは二人を相手にしてもまるでひるんだ様子はなかった。しかし、別方向から突然橙色の髪が飛び込んでくることまでは予想出来なかったようだ。更に、アルソレイの動きを撹乱したドーランにかすり傷も与えず、フェノンが後ろからアルソレイの武器を撃ち抜いた。ドーランが彼をそのまま床に押し倒す。
「少尉!」
「これで終わりだ!」
 ドーランに当てないよう素早く移動したリゼーシュが銃を構える。乾いた銃声が響き、腕を撃たれたアルソレイが無力化される。銃弾に装填された麻酔が急速に彼の体の自由を奪おうとしていた。
「…E-ユニットと、タイムラナーで…我ら第一級民(リオン)の、新しい、歴史…が…」
 薬が回ったのか、アルソレイは言葉の途中で気を失った。
「…終わったか…」
 アルソレイが起き上がらないのを見て、ドーランがゆっくりと立ち上がった。そのとき、エルナートとフィオグニルがドーランとフェノンを追って室内に駆けこんだ。
「無事か?」
「うん、大丈夫」
 エルナートが駆け寄ると、フェノンは頷いて銃をホルダーへ収めた。エルナートの後ろに立っていたフィオグニルの右目が音を立てる。彼は一点を見つめて歩き出した。
「あ…」
「…ロイゼン…」
 フェノンとエルナートが見守る中、フィオグニルはイブを傷つけられたロイゼンの横に膝をついた。機能停止しているようだが、完全に破壊されたわけではなさそうだ。冷静に仲間の様子を観測しているフィオグニルに、チアキが声を掛ける。
―No.34…お前、Ωシステムから…―
「フィーノが解放してくれました、ルーズフトス博士」
 観測用個体であるフィオグニルには、突然言葉を発した小さな機械がチアキであることがすぐにわかったようだ。驚いた様子もなくそちらを見る。他の三体のヒュプノスはしばらく互いに顔を見合わせていた。
「…ルド…」
 フィオグニルがチアキの向こうで横たえられているルドを見る。フェノンは更にその先、E-ユニットの装置の中に眠っているセフィーリュカを見た。
「セフィーお姉ちゃん!」
 フェノンの声に、チアースリアとリゼーシュもそちらを見て動きを止めた。
「…これは一体…」
 カオスもE-ユニットに近づき、娘の顔を仰ぎ見た。
「セフィーリュカ…」


 互いの記憶に干渉している。
 E-ユニットを通して、異なるものが繋げられている。
 目を開けると、セフィーリュカの周囲には暗い照明の灯された研究所が広がっていた。
 恐る恐る、一歩を踏み出す。床の感触がひやりと伝わり、機械の臭いが鼻をついた。
「……?」
 気配を感じて立ち止まると、複数の足音が聞こえた。前方から歩いてきたのは杖をついた黒髪の老婆と数人の保安局員。セフィーリュカはとっさに隠れようと辺りを見回したが、隠れられる場所はなかった。歩いてくる人々は彼女に気づかないようである。
「こんな所に隠してあったとは」
 保安局員の一人が口を開く。老婆は唇を噛み締めながらセフィーリュカの横を通り過ぎ、一つの装置の前で足を止めた。
「コアは無事なんだろうね…?」
 老婆が、燃えるような赤い瞳を後ろの男達に向ける。
「あんな幼い坊やに手を出すほど墜ちていませんよ。…あなたが約束を守ってくれるならね」
 保安局員が装置を見上げる。後ろに立っていたセフィーリュカも同じ様に見上げた。
「…ルド…?」
 人間大ほどの装置。縦長のカプセル。その中にいたのは確かにルドだった。老婆が名残惜しそうにカプセルに触れ、その下にあったパネルを操作した。機械が徐々に出力を弱め、シャッターが降りる。
「…すまない…すまない…っ…No.44…」
 シャッターが下がりきるまで、老婆は謝り続けていた。
「八年前、僕はE-ユニットの起動デバイスとしてルーズフトス博士に造られた…」
 不意に声がした方向へ振り返ると、セフィーリュカの横にルドが立っていた。
「これは…ルドの、記憶?」
「そう…封印されていた記録。八年前、E-ユニットの新しい起動者が連れてこられた時、僕はエルステン政府から廃棄を命じられた。でも…博士と、ティアがそれを阻止しようとしてくれて…」
「ティア…コアさんの前にエルステンにいたフォルシモ家の人…」
「ティアはE-ユニットを監視する役目を持った人だった。初代起動者エルステン・ケサティアに一番近いところにいて、彼が苦しんでいることをずっと政府に訴え続けていた」
 ルドはカプセルの前で蹲っている老婆、チアキを見つめた。
「博士はずっと前からE-ユニットが人間の精神に悪影響を与えることに気づいていたから、これ以上人間が起動者にならないように僕を造った。新しい起動者、リゼッティシア・メンネルトが連れてこられる直前まで、僕をE-ユニットに組み込む計画を練っていた。でも…政府は『人間』が起動者であることが大切だと…そう言って、博士の弟子を人質に、僕を封印するように…」
「…それで…」
 セフィーリュカもルドと同じようにチアキを、シャッターの完全に閉まった機械を見つめた。保安局員がチアキの腕を掴み、無理矢理機械から引き離す。パネルが勝手に操作され、機械がロックされていく。
「…僕は記録を全て消された…。博士に造られたことも、ティアが僕のために死んでしまったことも…全部忘れてしまっていた。そして…タイムラナーを奪うためだけに、ダスローに送り込まれて…」
 目の前の景色が変わる。綺麗に整備された庭園。牢獄の様に立ちはだかる塀。
「何の記憶も持たない僕は、ただ二年間生かされた」
 機械を操る者。突然目覚めさせられたルドはアルソレイによってノジリス王家に送られ、ほとんど幽閉された状態で二年間を過ごしていた。
「何で生きているのかわからなかった…自分の存在する意味を、ずっと…考えてた…」
「…淋しかったんだ…?」
 しゃがみ込んで庭園の花に手で触れながら、セフィーリュカはルドに尋ねた。ルドは少し間を空けて、悩む様に下を向いた。
「淋しかった…?そうか、これはそういう感情…君からも流れ込んで来る。お父さんを失ったと思ってから、君はずっとこの気持ちを抱いてきたんだね」
 また景色が変わる。
 プロティアの、セフィーリュカにとって家族との想い出の場所。決して広くはないけれど、風の気持ちいい堤防。遠くから笑い声が聞こえる。幼い頃の、記憶。セフィーリュカは姉や兄と笑い合っている幼い自分を見遣って涙ぐんだ。
「でも、私には家族がいた。同じ思いを共有してくれる人達が。…ルドは、全ての記憶を消されて…ずっと…独りぼっちだったんだね…」
「泣かないで。僕が辛いと感じるのはあくまでプログラム。人によって造られたもの。君達人間に似てはいるけれど、違うもの」
「そんなことない!あなたは人の痛みを知ってる。今だって、私の痛みを受け止めてくれてる。ただの機械にそんなこと…出来るはずないもの……あなたにはちゃんと命がある…」
 風が二人の髪を撫でる。ルドはセフィーリュカの記憶により築かれた、彼女にとってかけがえのない故郷の空を見渡した。
「…君も、プロティアで生まれたことで悩んでいたんだね。本物の命なのに、偽物に囲まれているうちに…境界線がわからなくなったんだね」
 世界が最後の変化を遂げる。機械に囲まれた世界。人類がいつかぶつかる、あるいは自ら訪れる世界―。
 セフィーリュカはその中で真っ直ぐにルドを見ていた。
「もう、惑わされない。本物も偽物もないってわかったから。私達は今、生きてる。あなたが…教えてくれた」
 夥しい機械の向こう側。ルドもセフィーリュカを見ていた。
「僕も君に教えてもらった。人間の温かさを」
 世界が歪む。周囲を埋め尽くしていた機械が崩れ落ち、元の暗闇に近づく。ルドはセフィーリュカに歩み寄ると、ゆっくりと彼女の背後を指差した。
「君はここにいちゃいけない。ここで、囚われていてはいけない。…皆が、君のことを呼んでるよ」
 指差した先に光が灯る。光は徐々に増幅され、セフィーリュカは眩しさに目を瞑る前に、ルドを振り返った。ルドは優しく穏やかな顔で、微笑んでいた。
「仲間達を…よろしく」
「…うん。ありがとう…ありがとう、ルド…」
 光が周囲に溢れ、セフィーリュカは目を瞑った。


 E-ユニットが光に包まれる。誰もがその眩しさに目を閉じた。
 光が収束してカオスがゆっくり目を開けると、装置の頑丈な扉が開いていた。内部に捕らわれていたセフィーリュカが装置の入り口からふらりと落下する。カオスは急いで走り寄ると、落下してきた彼女を抱きとめた。
「セフィーリュカ…」
「彼女、は…大丈夫…」
 弱々しい声の主を、全員が見遣る。横たえられたルドが赤い瞳を開き、カオスとセフィーリュカを見ていた。
―No.44…お前…―
「博士…E-ユニット……制御……問題、ありません…」
 表情のないまま、言葉だけ発する。エルナートがルドを見下ろし、首を振った。
「…イブが…破壊されている…中枢の感情システムに異常が…」
 フェノンとドーランはその言葉の意味に気づき、辛そうに下を向いた。
―すまない…No.44…お前に感情を与えなければ、こんなに苦しませることはなかっただろうに…―
 チアキの声が震える。ルドは首を振って虚ろな視線を天井に向けた。
「博士…謝ってばかり…です…。…苦しくなんて…ありません…『ココロ』がなければ…人間の…こと…理解できなかった…か、ら…」
 ルドは徐々に瞳を閉じた。
 E-ユニットが音を立てる。
「E-ユニット、完全起動…確認」
 装置を見上げ、フィオグニルが報告する。フェノンが黙ってしまったチアキを見る。
「機能は停止したはずなのに…どうして制御出来てるの…?」
―…Ωシステムの本体はアダムに集積されている。イブが破壊されても…制御システムは残る。E-ユニットの起動に、感情は必要ないのだ…―
 チアキが弱々しく光を放ち、フェノンに応える。
「そんなことありません」
 少女の声に、フェノンは勢い良く振り返った。カオスの腕から床にしっかりと足をつけたセフィーリュカが、眠りについたルドを見つめていた。
「E-ユニットは人間の感情に反応する。人間が抱く強い孤独な心に。ルドは…孤独の意味を理解してくれたから、正しく起動することが出来たんです。彼の『ココロ』は、無駄じゃありません」
 チアキはしばらく弱々しい光を放ち続けていた。ルドと直接的に対話した少女。彼女の言葉ならば信じられるかもしれない。
「この人達も、孤独だったからこの装置に惹かれたんですかね…」
 電子ロープで拘束された二人のエルステン人。彼らを見下ろしながら、リゼーシュがぽつりと呟いた。
「そういう申し開きは、連邦警察で語ってもらうとしようじゃないか」
 ザリオットに任務完了の知らせを送信しながら、チアースリアはそう言った。
「行政委員長が逮捕されちまったんじゃ、エルステンはこれから荒れるよな…」
「そういう時のために、私達がいる」
 アルソレイを見下ろしてため息をついたドーランの肩を、エルナートが優しく叩いた。フェノンも頷いてルドを見ていた。
「うん…そうだね」
 Ωシステムの完全体。機械としても、ヒトとしても、完全だったかもしれないルド。もう何も言ってくれないのは悲しいけれど、それでも…きっと幸せだったはず。
 カオスは、床に倒れていた青い髪の女性をそっと抱き起こしていた。補体であった彼と同じ様に、八年前と変わらぬ姿をしたリゼッティシア。しかし、その精神はおそらく八年前とは変わってしまっているのだろう。まるで目を覚ます気配はなかった。
「俺のこと…恨んでいるだろうな」
 俯く父の背中を見て、セフィーリュカは後ろで小さく首を振った。
「淋しかったから、お父さんをここに繋ぎとめてたの。苦しかったかもしれないけど、でも…お父さんのことは恨んでないはずだよ…」
「セフィー…」
 顔を上げたカオスの瞳を、セフィーリュカは同じ色の瞳で見つめた。E-ユニットの中で、自分を見失いそうになっても最後まで心の中に描き続けた、空の色。
「帰ろう、お父さん」


 エルステンから放たれていた光は徐々に収束していった。宇宙を包んだベールが徐々に剥がれ、元の暗闇に戻っていく。
 しかし、一度歪んだ空間は全てを飲み込むのを止めなかった。
「逆位相しても…駄目なのか…!?」
 ロードレッドの艦橋に戻ったゼファーはデスクに拳を打ち付けた。四個艦隊全ての動力を持ってしても、空間の拡大は止まることを知らない。
「空間歪曲、D7まで到達!このままでは重力場に引き込まれます!」
「他の艦にぶつからないように後退して下さい!」
 航宙士の声に応じて、艦長席のシェーラゼーヌが声を上げる。
 忙しく情報の飛び交う艦橋。その窓の外を一隻の船が横切っていったことに誰も気づかなかった。レーダーのみがそれに反応する。
「艦長、船が…!」
「連携を崩さないように伝えて!」
「いえ、当艦隊のものではありません!」
 通信士が船の様子をスクリーンに投影する。連邦軍のものではない、盾形のオーパーツ。
「レイト、さん…?」
 映像を見たゼファーが呟く。
 歪みのちょうど真ん中で緩慢に動きを止め、緑色の光を発するシエスタ。
 その中心で、レイトアフォルトは歪みの中心を見つめていた。闇がシエスタを飲み込もうとその手を伸ばす。
「…リゼッティシア……今、そっちに…」
 シエスタの高い天井。
 愛しげにそれを見上げ、レイトアフォルトは笑顔で呟いた。
 光が増す。闇を侵食する。
 光の球と化したオーパーツの中心で、レイトアフォルトは視線を移した。真っ直ぐにロードレッドのゼファーを見る。
「……っ!?」
 緑色の視線と目が合った時、ゼファーは全てを理解した。
 彼が何をしているのか。
 自分が何をすべきなのか。
「…でも…それは…っ…」
 鼓動の高鳴りを感じた。
 やらなくてはいけないのか―!?
 苦悩するゼファーを見つめ、レイトアフォルトは穏やかな微笑をたたえた。口を開いて何か言ったが音声が届くはずもなく、恐らく理解も出来なかっただろう。
 最後に彼はゆっくりと頷いて見せた。
「全艦……主砲発射用意……目標、空間歪曲中心点…」
 震える声で命令を下す。信じられない命令に誰もが一瞬息を呑み、ゼファーの方を見た。全てを悟った青年は辛そうにオーパーツを、その中の人間を見ていた。
 艦隊が動く。
 エネルギーが主砲に集められる。
 破壊の象徴。
 阻止の象徴。
 金属で出来た何本もの筒がただ一点を定めた。
 シエスタは待つように光を蓄えている。
 全ての準備が整い、ゼファーは息を吸い込んだ。
「……発射!!」
 宇宙を切り裂くように、熱が全てを支配する。
 歪み、その中心に佇む『盾』に全エネルギーが向けられる。
 数秒後、シエスタは完全に爆散し、その跡が膨大な光の束を吐き出した。強く、温かな緑色の光。暗闇を宥めるように包み込み、歪みの魔手を眠らせる。
 静寂―。
 歪みの停止―。
 これ以上、進むことも戻ることもない。
 時間は捻じ曲がったまま止まり、空間は空間として存続することを止めた。
 全てが、止まっていた。
 ロードレッドの艦橋、コンピュータだけが音を立てている。
―熱反応なし。目標クリア―
 無機質な音声が繰り返しゼファーの耳をつく。正常に働かない頭を上げ、彼は音声を停止しようと手を伸ばす。手が触れる前に音が止んだ。
 近くのコンピュータがピピピ…と音を立てる。艦橋のコンピュータが全て反応している。ロードレッドだけではない、全ての艦の機器が全て一つのメッセージを表示した。
 斜体で書かれた言葉。
 とても短い言葉。

―Thank you…―

 表示されたその言葉は、宇宙を包む緑色の光が完全に消え去ったとき、名残惜しそうにゆっくりと薄れていった。