Gene Over│Last Episode閉環 08同位体

 突然床が突き上げるような衝撃があった。
「きゃっ…」
 シェーラゼーヌはバランスを崩してその場に転んだ。窓の外を見ると、コンピュータウイルスによって無力化した艦が時空の歪みの影響で衝撃を受けているのがわかる。
「このままじゃ…」
 シェーラゼーヌは慌てて立ち上がると再び走り出した。ウイルスが艦隊全てに行き渡る前にロードレッドの艦橋を飛び出したのでかろうじてカセムまでは転送装置で来ることが出来たが、カセムに入った瞬間に狂ったコンピュータの洗礼を受けてしまった。システムの異常で閉じられた扉を順番に開き、地道にコンピュータルームを目指す。しかも、出迎えるのは無数の仲間達の死体。ラニーが直接手を下したのかは定かでない。仮にも軍人なのだから、民間人の女性にそう簡単に殺されるはずはないのだが、恐らくは狂わされたコンピュータシステムに殺されたのだろう。急に閉じた隔壁に挟まれて絶命している者もいた。
 非常灯が眩しく点滅する廊下。シェーラゼーヌは曲がり角で立ち止まった。休みなく走り続け、流石の彼女も疲労を覚えていた。壁に寄りかかり、手にした銃をゆっくりと下ろす。
「絶対に、止めなきゃ…」
「あなたに出来るかしら?」
 息の止まる思いで、シェーラゼーヌは銃を構えた。声の主を探すが、どこにも見当たらない。不意に、一つのモニタが目の前に現れた。ラニーが勝ち誇ったような微笑を浮かべている。
「こんなこと、やめて下さい…!このままじゃあなたも死ぬんですよ!?」
 銃を下ろしたシェーラゼーヌはラニーの映像に話しかけた。必死に窓の外を指差して状況を理解させようとするが、ラニーは全てを悟った様子で、何の感情も持たない瞳をシェーラゼーヌに向けている。
「別に構わないわ。私は本来存在しないんだから」
「………」
「あなただってそうよ。リューゼンドルフがあんなこと言い出さなければ、私もあなたも今ここにはいない」
「…リューゼンドルフ?」
「カナドーリアにいたフォルシモ家の人間。…兵力としての同位体研究をカナドーリア政府にさせた張本人よ」
 シェーラゼーヌの前に無数のモニタが表示される。多数の文字。多数の数字。多数の音声記録。

―カナドーリアは銀河同盟領との境界。そのため戦火が絶えない―
―今のままでは、いずれ兵力が不足する―
―この惑星で機械開発は無理だ。プロティアやエルステン程設備が整っていない―
―だったら…『人』を造れば良いのですよ―

「…っ!」
 データベースに残った記録。金髪で目元に黒子のある、鋭い目つきのプロティア人。その横には、どこかくたびれた顔をした男性が立っている。
「彼がリューゼンドルフ・フォルシモ。十九年前、遺伝子研究の権威としてカナドーリアに送られた男。そして、彼の共同研究者ジャンサード・トロキス」
 ラニーが説明するが、その声に感情はこもっていなかった。

―原理はクローンと同じじゃないか。連邦政府に知れたら…―
―大量に製造すれば怪しまれる可能性もありますが、最低量ならごまかせますよ―
―何を言っているんだ、君は!?―
―現在国内で病院に入っている人間はどれほどいます?―

「いや……」
 シェーラゼーヌは思わず銃を取り落とした。

―死にかけた病人などは特に都合がいいですね。死亡報告書を改竄すればいいんですから―
―君には倫理感が欠如している!!―
―私情を挟んでいるように聞こえますね、トロキス博士。ああそうか、あなたの息子もその『死にかけた病人』でしたね―

「やめて…」

―息子を侮辱するのか!?―
―違いますよ。代わりの者に人生を託してあげるんです―

「…聞きたくない…っ」

―この惑星で治療を受けていても助かる見込みはないんです。このままでは、無駄死にでしょう―

 モニタが一つ消え、別のモニタが明滅する。

―妻が急死した―
―息子ももう数ヶ月ももたない―
―私は全てを失うのか?―
―いや、私にはこの技術が残されている―
―しかし、これは…―
―……それでも私は取り戻さなければならない―
―かけがえのない、家族を―

 暗い部屋。
 狂った科学者。
 造られた少女。

―漸く完成したんですか、トロキス博士―
―F37をお前達に渡す気はない―
―何のための同位体です?―
―全てをやり直す。息子を私の手で殺し、もう一度家族を…―
―倫理感…あなたが言った言葉ですよ?―
―………―
―ふっ…狂気に捕らわれた人間程、醜いものはありませんね―

 重い足音。
 白い病室。
 犠牲を求める銃口。
 自分のコピーを見つめる少年。

―…お父さん…その子は、誰…?―
―お前の代わりだ。不完全なお前はもう要らない…シェータ―

「もうやめてっ!!」

 銃を拾うと、シェーラゼーヌはモニタに向けて発砲していた。銃弾が実体を持たないモニタを透過して壁にめり込む。
「お願い、もうやめて!…こんなもの…見せないで…」
 シェーラゼーヌは震える手で耳を塞ぎ、座り込んだ。
 モニタが徐々に消えていく。最後に残ったモニタ上で、ラニーは無感動にシェーラゼーヌを眺めていた。
「わかったでしょ?私達がどんなに呪われた存在か…私達を必要としてるのは狂った人間だけ…」
 ラニーの言葉から逃げるように、シェーラゼーヌは走り出した。その手にはしっかりと銃を握っている。
「そう、それでいい。…私達は…」
 眉を伏せて呟いたラニーを映したモニタは、数回のノイズの後その場から消え失せた。


 このウイルスは普通じゃない。
 メティーゼは汚染されたデータをすくい出しながら軽く舌打ちした。
「一般的に、一度直したら二度と同じウイルスには汚染されないんじゃないの?」
 このデータは先程コアルティンスによって修正されたものだ。平面宇宙の座標が記録されてある大切なデータ。これを狂わされたら自分達はどこへ行くことも出来なくなってしまう。
「我が一族ながら、凄いとしか言えないね…。どこをどう直しても最後には全てのデータが破壊されるように構築されてる」
 手を休める暇もなく、コアルティンスは大切なデータを中心に修正作業に徹していた。
「すまない、もう少し待ってくれ」
 ウイルスを削除するためのワクチンのヒントであろう八桁の数字を睨みながら、シェータゼーヌが言う。いくつもの計算が書かれた用紙が何枚も周囲の床に散らばっている。
「もう少しで数字の法則性が…」
 言いかけて、不意にシェータゼーヌはペンを落とした。シオーダエイルが彼の顔を覗き込む。
「どうしたの、大丈夫?」
 シェータゼーヌは頷いたが、驚いた顔で自分の手を見つめていた。その手が微かに震えている。
「……シェーラ…?」
 普段は干渉し合うことのない同位体。しかし、この手の震えは彼女の精神状態を反映しているように思えた。激しい感情の動き。それに伴い、二人が共有している記憶の『箱』の一部が強制的に閉じられたような違和感を覚える。記憶を押し殺す行為。それ程の記憶。
「俺に見せたくない程の…一体何を見た…?」
 こんなことは今までなかったのに。
 なぜなのだろう。
 怒りではない。…寂しさ?
 何かが不安なのだ。
 彼女の存在を脅かす何か。
 綱渡りの存在。
 都合良く作られ、今も振り回され続ける命。
 でも、自分にそれを否定することは出来ないのだ。
 そんな命を作り出した理由は自分自身にあるのだから。
 無力な自分自身にあるのだから。
「不安に思うことなんてないんだ、シェーラ…」
 初めて会った十七年前のあの日。
 父親に存在を否定され、殺されかけたあの日。
 自分にそっくりな彼女を見た瞬間、全てを託すことが出来ると思った。自分の代わりに父親を守ってくれたらどんなに良いかと。あの時は自分の命の終わりが近いのではないかと子供心に理解していたから―。
 確かに法律では許されない命かもしれない。
 でも自分にとってはかけがえのない分身。何も出来ない自分の代わりに様々なものを見て、聞いて、触れる存在。
「頼むから、俺より先に…死なないでくれよ…」
 震える手を握り締め、シェータゼーヌは呟いた。