Gene Over│番外編 Beginning of All-2

「出力レベル五に到達。…システム、安定しています」
「…今日はいけそうだね。もう一段階レベルを上げな」
「了解。出力、更に上げます」
 第七研究所の中で最大の広さを持つ特別実験室。所長のチアキ・ルーズフトスは硝子張りになっているその部屋の一番奥で次々と機械から吐き出されるデータと睨み合っていた。白髪の混じっている黒髪を時々指先でいじる。それが彼女の癖だった。横で機械のコンソールを忙しそうに動かしている助手の青年が声を上げる。
「出力レベル六」
 青年の声を聞きながら、チアキは自然と手に汗を握っている。
 この実験が完全に成功すれば―。
 しかし、彼女の願いとは裏腹に機械が叫び声を上げた。赤い照明の明滅に合わせてアラームが鳴る。青年が緊張した様子でチアキを見た。
「シナプス強制置換。駄目です、システムが則られます!」
 チアキは機械を見つめながら悔しげに眉を吊り上げると軽く舌打ちした。年老いた体とは思えないほど、きびきびと手早く指示を出し始める。
「実験は中止だ。Ωシステムの保護を最優先。研究所の動力を全てこちらに回しても構わん」
 チアキの手足のように助手達は迅速に行動した。数分後には全てのアラームが停止し、事態が収束する。助手達が忙しそうに動き回っている間、チアキは彼らに全ての操作を任せ自分は取得したデータを睨み付けているだけだった。静かになった室内に、書類を勢いよく叩きつける音が高く響く。
「結局いつもと同じところでエラーが出る…」
 しわがれた声でそう告げるとチアキは机に立てかけてあった杖を手に取った。不自由な足を引きずるように部屋の出口に向かう。助手達はいつものことだというように、無言で出て行く彼女に声をかけようとはしなかった。
「…あの、エラーの原因って…」
 若い研究者がチアキの残した書類を覗き込みながら呟く。それを見て年長の研究者がコーヒーカップを揺らして溜め息をついた。
「言うまでもない。所長だってとっくに気づいてるさ」
「少し手直しすれば簡単に排除出来る要素です。…『感情システム』なんて」
「そうは思うんだがな。所長はそのシステムに手を加えることだけは絶対に許さないんだよ」
 コーヒーカップから湯気が立ち上る。研究者は慎重に口をつけながら機械を見上げた。厳重に整備された機械。その本体とも言えるカプセルの中の人型兵器。仮止めされた皮膚。閉じられた瞳は、開けば燃えるような赤色をしている。それがチアキの瞳と同じ色だということを、第七研究所の人間は皆知っている。
「当然だろう…ヒュプノスは、所長にとって子供みたいな存在なんだからな」


 衛星とはいえ、第七研究所は立派な建物として宇宙にその存在を認められている。決して大きくはないが宇宙港もあり、所内の人間が全員乗れる程の宇宙船も数隻保有している。それらの宇宙船の間を縫って、ティア達の乗るシャトルは入港した。ティアは体を乗り出すように窓の外を見ると、隣に停泊している黒い宇宙船を指差した。
「トナ、知ってる?あの船、アロースティルはフォルシモ家の最新鋭艦なのよ。見た目はアレだけど…速さは宇宙一!らしいわ。…あまり使われてないのかしら、埃かぶってるみたいね」
「使われない方が良いわ。武器、積んでるのでしょう?」
 トナが俯いて眉を顰める。兵器にそう言われてしまえばお終いである。ティアは二の句が告げなくなり、気まずそうに席に座り直した。
「(兵器に対してこういう性格付けをするルーズフトス博士って…やっぱりちょっと変わってるわよね)」
 理解出来ないわけではない。トナと一緒にいると心が安らぐのは悪いことではないと思うから。
 でも、辛くはないのだろうか。特にトナ達10ナンバーの固有システムを思えば、豊かな感情など必要ではないし、寧ろそれが枷となってしまうのではないのだろうか。
―目的地に到着しました。ハッチを開放します―
 ティアの思考は無機質な音声案内で遮られた。

「相変わらず殺風景よね」
「それが博士のこだわりだから」
 埃一つない廊下を歩きながら二人はそんな会話を交わした。数人の研究員とすれ違ったが、皆ティアの顔を見知っているので私服の彼女が歩いていても何も言わなかった。そうは言ってもティアにとってこの研究所は馴染み深いものではない。所内の道案内は専らトナの役目であり、彼女はティアの前を慣れた足取りで進んでいった。ここに来るのはあまり乗り気ではなかったようだが、実際に来てみればどこか嬉しそうに見えるのは、ティアの主観でしかないのだろうか。
「…トナ?」
 少し広いロビーに出たところで、廊下のちょうど反対側からトナと同じ赤い髪をした少女が彼女に声をかけてきた。気の強そうな、しっかりした赤い瞳。トナは仲間に対照的な優しい視線を向けた。
「久しぶりね、メティーゼ。…今日はヴァルケータと一緒ではないの?」
「ヴァルはメンテナンス中。この前の任務でかなり損傷を負ったからね」
 軍に所属し、戦争のため戦闘艦に乗るヒュプノス。備品として扱われる戦闘兵器。No.13メティーゼはそれが当然といった顔でトナを見つめている。トナは前線で活躍するメティーゼともう一人の仲間、ヴァルケータが無事でいることに安堵したようである。
 メティーゼはふと視線をティアの方に移した。赤い瞳にじっと見つめられ、ティアは思わず後ずさりしそうになる。同じヒュプノスなのに、同じ10ナンバーなのに、トナとはまるで異なる瞳の輝きだった。
「ティア・ディルナ・フォルシモ博士ね。コアルティンスに会いに来たの?」
「え、ええ」
「彼は今、奥の書斎でレポートを書いてるの。もうすぐ終わるはずだから、終わったらここに連れてくるわ。ロビーで待っていて頂戴」
 メティーゼはそう言うと、ティアの返事を待たずに廊下の奥へ消えていった。呆然とするティアを振り返り、トナが申し訳なさそうに俯く。
「ごめんなさい。別に悪気があるわけじゃないの。あの子だけは、どうしても同じ10ナンバーにしか馴染もうとしなくて…」
「大丈夫、気にしてない。…あなた達は一つのサーバーを介して無意識下で互いに繋がっているんだったわよね。絶対的に心を許せる仲間ってことなんでしょ?良いことだと思うわ」
 ティアはそう言って笑ってみせた。そう、人間だって生きていく中でそういう存在を得ることは非常に困難で奇跡的だと思う。それを生まれながらに持っていることはとても幸せなことなのではないだろうか。
 ティアはロビーに置いてあった来客用の椅子に腰掛けた。壁に取り付けられた電光掲示板を何気なしに見遣る。所内の人間の一日の予定やら現在の位置やらが順番に表示されていた。
「No.14緊急メンテナンス…」
「ヴァルケータのこと。…ルーズフトス博士が担当じゃないのね…」
 赤く表示された文字をティアが読み上げると、トナも隣で少し不安げに掲示板を見ていた。所員の腕が悪いということではない。要は『愛情』の向け方らしい。チアキのメンテナンスと一所員のメンテナンス。物理的ではない違いがそこにある。
「博士はどこにいらっしゃるのかしら?」
 ティアが首を傾げると、トナは何も言わずに掲示板の一点を指し示した。もう一つ表示された赤い文字。
「『コードネームΩ起動実験』…?」
 どこか明確でないような表示。読み上げても今ひとつぱっとしない言葉。まあ、あまり気にしてはいけないのだろう。ティアが普段仕事として扱っている件もそうであるが、この手の科学者には他人に言えない秘密の一つや二つあるのが普通である。
「ティア!」
 研究所に似つかわしくない子供の声。明るいその声に、ティアは掲示板から目を離した。廊下の向こうから軽い足音が聞こえてくる。顔を見なくてもわかる。一族の中で最も幼い、『従姉弟』にして『弟』―。
「コア、元気だった?」
 駆けて来た少年を腕の中に受け止めて、ティアは嬉しそうに彼の顔を覗き込んだ。少年、コアルティンス・フォルシモはにっこりと笑うと元気そうに頷いた。
「まったく…廊下は走るなって言っているのに…」
 かつかつとブーツを鳴らして近づいてくると、メティーゼがコアルティンスを上から見下ろして不機嫌そうな声を出した。彼女の姿はどう見てもティアと同い年くらいかもっと幼い程度なのに、態度や仕草はどこか落ち着いていて人間でいったら大人に属するものであろう雰囲気を醸し出している。そんな彼女の説教には慣れているのか、コアルティンスは彼女を怖がる風でもなくころころと笑い声を上げていた。
「この前、メティーゼも走ってたよ?」
「それは任務で急いでいたの!緊急時はいいのよ!」
「じゃあ、今も『キンキュウジ』だったんだよ!ティアに早く会いたかったんだもん!」
 コアルティンスはそう言うとティアにしがみついた。ティアとしては嬉しい限りだが、メティーゼの赤い瞳に見られていると素直に喜べない雰囲気である。ティアはコアルティンスに向き直ると、彼の小さな頭を優しく撫でた。
「とても嬉しいんだけど、コア、研究所の決まりはちゃんと守らなきゃ駄目よ。あなたはここで勉強させてもらってるんだから」
 おかしな物言いだということは自分でもわかっている。まだ六歳の彼が、勉強をさせてもらっているなどと思っているはずがない。
 全てはフォルシモ家の意向。フォルシモ家の決定。逆らうことは許されない血の束縛。
 そもそも、コアルティンスについては当主であるラノム・セクレア・フォルシモが責任を持って面倒を見るべきなのだ。彼はラノムにとって『息子』に当たる存在なのだから。確かにラノムはティアよりもずっと『年下』だし、ティアを凌ぐ多忙さなのも理解出来る。でも、だからといってエルステンの一研究所などに放っておくだけ―言い方は良くないかもしれないが―なのはあまりにも酷いのではないかと思う。
 コアルティンスはティアの心配を知ってか知らずか、ただ無垢な双眸を彼女に向けるだけだった。今はまだ何も知らない瞳。何も知らずに学問を叩き込まれるだけの少年を想って、ティアは少し悲しくなった。自分の二の舞になって欲しくはないのに。
「コア、コアルティンス!」
 廊下の奥からしわがれた声が少年を呼んでいた。本人より先に二体のヒュプノスが声の方に目を向ける。黒髪に赤い瞳の老婆が杖をつきながら歩いて来るのが見えた。もう片方の手に、束になったレポート用紙を持っている。杖の音を聞きつけてコアルティンスもチアキの方を振り返った。
「先生、どうしたんですか?」
「どうしたもこうしたもないよ。何だい、これは」
 気難しい老所長はどうやら機嫌が良くないようだった。幼い筆跡で綴られたレポートを作成者に突きつける。無理矢理手渡された紙の束をぱらぱらと捲りながら、コアルティンスは首を傾げている。チアキは余った手を腰に当てて眉を吊り上げた。完全にコアルティンスを見下している。
「こんなもの、読む価値もない。私は前提すら間違えて書かれたただの紙クズなど読んでいる暇はないんだよ!」
 ものすごい剣幕に、怒られている本人よりもティアの方が恐れおののいてしまった。びくりと肩を震わせてチアキの燃えるような赤い瞳を覗き込もうとしたが途中で怖くなってつい目を逸らした。コアルティンスが持つレポートを見遣る。
「……ヒュプノスの感情解析…ヒトとの…相違?」
 まだ拙いエルステン文字で書かれたタイトルを読み上げて、ティアはその先を読むのを諦めた。それなりの頭脳を持つ彼女でさえ知り得ないような数式が所狭しと並べられているのである。それが枚数にして三十二枚。これだけ書き上げるのに果たしてどれだけの時間をかけたのかはわからないが、そんな代物を『読む価値なし』とまで決め付けるのはあまりに酷くはないだろうか。
「そもそもテーマがおかしいのだと、あれほど教えてもまだわからないのかい!?」
 ティアの思いとは裏腹に、チアキは大声で弟子に怒鳴りつけていた。幼い弟子は泣くわけでもなく、レポートを大事そうに抱きしめてじっと青い瞳を師匠に向けている。
「でも…」
「感情システムの構築原理は叩き込んだはずだ!理論に狂いはないと証明して見せたばかりだろう!ヒトとヒュプノスに感情面での相違などあり得ん!」
 レポートのタイトルを指差しながら、チアキはコアルティンスを睨み付ける。彼は納得出来ないのかページを数枚捲るとある数式を小さな指で指し示した。数字とギリシャ文字の組み合わさった難解な答えがイコールの後ろで踊っている。
「理論に狂いはなくても実測値の差異が出ているんです!実験データが大切だって言ったのは先生です!」
 六歳児とは思えない単語がコアルティンスの口から飛び出す。そのレベルがこの研究所で最低限求められているものであり、この研究所で否応なく身につけられた少年の『生き方』でもあった。そしてこれが、フォルシモ家の人間に対しては一般的な教育―。
 弟子の反抗に折れたわけではないだろうが、最終的にチアキは怒鳴り疲れたらしい。大きく溜め息をつき、ティアの隣に立っているトナを指差した。
「お前の実験操作が未熟なだけだ!そこのNo.11でも使ってもう一度測定してみるんだね!レポートの内容が覆ることを自分の目で確かめな!」
 突然指を差されてトナもさすがに驚いたようで、しばらく呆然と立ちすくんでいた。
「…私、ですか?」
 漸く創造主に対して口をきくと、トナは困ったようにコアルティンスとチアキを見比べた。チアキが頷く。
「お前は人間と一般的な生活をしている稀有な存在だ。この機会にその辺りのデータも採取させてもらうよ」
「先生、10ナンバーは特殊なヒュプノスです。ぜったいに他の個体と差が出ます…」
「うるさい!差はないと言っているだろう!10ナンバーだろうと社会不適合個体だろうと同じことだ!」
 よほど負けず嫌いなのか、コアルティンスが更に反論するのをチアキは途中で遮った。師弟の争いにすっかり巻き込まれた形になったトナはただ事の成り行きを心配そうに見守っていた。コアルティンスが不意に彼女の腕を掴んで引っ張る。
「ぜったい差が出ることを証明します!協力して、トナ!」
「え?は、はい…」
 引きずられるようにトナはコアルティンスと一緒に歩き出した。彼女は去り際、困ったようにティアを振り返ったが、そんな彼女にティアは両手を合わせて謝罪の意を伝えた。トナは微笑んで頷くとチアキに軽く会釈をしてコアルティンスと共に廊下の向こうに消えていった。
「ご愁傷様…」
 トナを見送りながらメティーゼがぽつりと口にする。幼いコアルティンスの粗悪な実験操作。彼女はその恐ろしさを知る経験者であった。完全に話題に置いていかれたティアは苦笑しながら天井を仰いだ。ある意味、トナを連れてきたのは間違いだったかもしれない。
「客人の前で見苦しかったね。許しておくれ」
 ふと、チアキがやや口調を和らげてティアに話しかけた。ティアは大げさに首を振る。
「いえいえ、コアが本当にいつもご迷惑をおかけしているようで…!」
「立ち話もなんだ、奥の応接室においで。茶くらい出すよ」
 フラスコ入りの、とはさすがに言わなかったが、多分それくらいのもてなしなのだろうとティアは本能的に察知する。それでもティアが礼を述べると、チアキはメティーゼにティアを応接間まで案内するよう命じた。
「早急にまとめたい書類があってね。十五分くらいで私もそちらに向かうから、まあゆっくりしていきなさい」
 そう告げるとチアキは杖をついて先程歩いてきた方角へ戻っていった。思った以上の長居になってしまいそうだが仕方がない。コアルティンスがトナを解放してくれるまでは帰れないわけであるし。
「お忙しいところを邪魔してしまったようね…」
 ティアが少し後悔しながらメティーゼを見ると、彼女はティアに遠慮するわけでもなく大きく頷いてみせた。
「本当よ。どうして私が案内役なんて…」
「ごめんなさい。えっと…メティーゼ?」
「気安く名前で呼ばないで。No.13よ」
「せっかく名前があるのに、呼ばれたくないの?」
「名前は大切な概念。自己と他者を分ける言葉。でも…無理矢理『違い』を押し付けられたくはないの」
 ティアに背を向けてそう言い放つと、メティーゼは応接間に向けて歩き出した。彼女の言葉の意味を考え、しばらく呆然と立ち尽くしていたティアは数秒後に我に返って後を追いかけた。
「あ、ちょっと…待ってよ!」
 とっさに名で呼ぶことも、番号で呼ぶことも出来なかった。

 応接室なのだから花くらい置けばいいのに、とティアは口に出しかけて意味のないことだとすぐに諦めた。どちらかと言えば可愛いものや綺麗なものを好むティアには理解しがたいほどのつまらない部屋だった。シンプルとしか表しようのない椅子に腰掛けて、ティアは既に何度目かの欠伸を噛み殺した。
「こんな所で一人にされても…」
 ティアはうなだれた。茶を出すと言ってメティーゼはどこかへ行ってしまったが、今は飲み物よりも退屈を紛らわす相手が欲しかった。
「それにしても…。『違い』か…」
 ふと、先程のメティーゼの言葉を思い出していた。名前が自己と他者を分ける。自己はもちろん自分自身に当たるわけだが、彼女達10ナンバーにとってその境界線は必ずしも自分自身に留まらないのだろうか。もしくは自分自身という概念を持たないのかもしれない。
「でも、ルーズフトス博士が十体に別個の名前を与えたことも事実だわ…」

 No.11トナ―咎人
 No.12ホローネ―疑義
 No.13メティーゼ―真実
 No.14ヴァルケータ―伝聞
 No.15ホスファルース―御伽噺
 No.16カリス―夢
 No.17ニールス―要請
 No.18シャルヴェス―審問
 No.19エクトロア―二人称
 No.20クロフィード―逆転

 ヒュプノスの名前は全てエルステン語―正しくはエルステンに移民したホワル人が使っていた言語―によって付けられているらしい。No.11からNo.20までの名前はどこにも統一性もなければ、システムが名前を決定付けているわけでもない。完全に別なものを定義する言葉―。
「『真実』なんて、とても良い名前なのに…」
 メティーゼという名前を思い浮かべてティアはそう思った。トナなんて『咎人』だ。チアキはなぜそんな名前を付けたのだろう。響きの美しさならともかく、思いつきだとしたら少し可哀想ではないだろうか。
「10ナンバーの始めは『咎人』…最後は『逆転』…?」
   何を『逆転』させたのか。
 No.20クロフィードの次に造られたNo.21以降の個体では個体間リンクという仕様を完全に捨て去っている。そのことと何か関係があるのだろうか。
 しかし、そう考えるなら『咎人』の前は―?
「No.10…。名前は…ええと、何だったかしら…?」
「生きる人(アラーレア)」
「そう、アラーレア。……え?」
 自分の力で思い出したのではない。ふと出された助け舟。ティアは驚いて応接間の入り口を見た。いつの間にか扉の内側に黄緑色の長い髪を黒いリボンで結い上げた女性が立っていた。その瞳は赤かったが、ティアはすぐに彼女がヒュプノスであるとわからなかった。ティアにとってよく見知っているヒュプノスは髪も瞳と同様に赤い10ナンバーだけであったから。
「そして私は『破壊者』です」
 彼女はそう言って淋しげに笑った。ティアは頭の中でゆっくりと彼女の言葉を翻訳する。
「『破壊者』…フィーノ…?」
 次の瞬間、ティアは女性を思い切り指差していた。
「あ、あなたがフィーノ?No.2!?」
 トナが恐れていた個体。デリートシステムを持った、仲間を殺す力を持つ『破壊者』。女性型ということは知っていたが、まさかこれほど穏やかな個体がそんな恐ろしいヒュプノスだなどと誰が思うだろうか。ティアが一人で慌てている間に、フィーノはにこやかな微笑を浮かべ続けている。
「あなたとコアは良く似ていますね。考えている最中は周りが見えなくなる」
「ま、まあ…姉弟だし…」
 機械から性格を指摘されてしまったティアは赤面してフィーノから視線を逸らした。フィーノはゆっくりとティアの前に歩いてくると、室内にあったもう一つの椅子に座った。
「もう少し待っていて下さいね。メティーゼはお茶のしたくが得意ではないので」
 フィーノはそう言ってくすりと笑った。ティアもつられて笑顔になるが、ふとあることに気づく。
「あなたは彼女のこと、名前で呼ぶの?」
「いいえ、本人の前でそう呼べば怒られてしまいます。…私は彼女にとって『仲間』ではないそうです」
「……」
 やはりチアキの言うように、ヒトとヒュプノスの間に感情の差異などないのではないだろうか。目の前のフィーノを見ていると本当にそう思う。
「私達の名前が、不思議ですか?」
 フィーノが話を戻したのでティアは素直に頷いた。両腕を組んで考える。
「生きる人(アラーレア)も咎人(トナ)も同様に『人』を表しているわね。ルーズフトス博士はヒュプノスとヒトを同じものとして並列したがっている節があるから、全ての個体にそういう名前を付けたのかと思ったけど…そうでもないわよね?」
「それは、博士自身が迷っていらっしゃるから…」
「迷っている?何に?」
「ヒトとヒュプノスの境界。生命の境界」
「………」
 何も言えなかった。
 生命の境界。
 一歩間違えば自分自身すらも奈落に突き落とすかもしれない呪われた境界線―。
 ティアは手の中にじっとりとした汗を感じた。フィーノはそんな彼女を試すように見つめている。
 この個体は一体何?
 自分を持った機械?
 なぜ?自我なんて必要ないでしょう?
 兵器なのだから…人類に貢献するための?
 人類の定義はどこ?
 私は…プロティアの……。
 外へ飛び出してしまいたいと思うほどの奇妙な恐怖感からティアを解放したのは扉の開く音だった。プレートの上にカップをのせたメティーゼがフィーノを見て一瞬、身を硬くする。そんな彼女にフィーノは変わらぬ笑顔を向けた。椅子から立ち上がる。
「ゆっくりしていって下さい。No.13、失礼のないようにね」
「…………」
 メティーゼは何も言わずにフィーノを睨み付けていた。フィーノは笑顔のまま部屋を出て行った。
「……偽善者」
 同胞を殺す個体が、同胞と歩み寄ろうとするのが気に食わないのだろう。ティアはメティーゼの言葉からそう感じ取った。なぜだろう、彼女の気持ちは良くわかる。
 そうか、私達は同類なのだ。
 フォルシモ家とヒュプノスは…似ている。
 ヒトはやはり自分の手で境界線を書き換えているらしい。


 カップの湯気が低くなる。
 冷めてしまう前に、とチアキはティアにすすめた。その言葉に従ってティアがカップに口をつける。
「No.11のメンテナンスをした方がいいかね?」
 チアキが突然そう切り出したが、ティアは口に含んだコーヒーが苦くてすぐに返事を出来なかった。表情に出さないよう細心の注意を払いながら首を振る。
「いえ、そのために連れてきたわけではないんです。彼女も久しぶりに博士に会いたいだろうと思って…」
「そうか。…私も久しぶりに顔を見て安心したよ」
 まだ破壊されていないことに。
 チアキの言葉の裏にはそういう意味があるのではとティアは思った。友好の印としての贈呈物。その個体に組み込まれたシステム―。
「…コアのこと、本当にすみません…」
 話が途切れてしまうのが怖くて、無理矢理話題を探す。ティアと同じく、チアキも日常的な普通の会話というのが苦手なようだった。苦笑して相槌を打っている。
「暮らしぶりは…見ての通りさ。でも、あの子はよく私についてきているよ」
 チアキは弟子の出来に満足しているようだった。先程のやり取りを見る限りではコアルティンスの教育に大変そうだとティアは心配していたのだが、チアキの笑顔を見て少し安心した。
「(本人の前では褒めない方なのね…)」
 上目遣いに老科学者を見て、ティアは苦いコーヒーをすすった。
 ヒュプノスに対してもそうなのだろうか?
 だから製造番号で呼ぶのだろうか?
 馴れ合うのが怖いの?
 ―別れが辛いから?
「(だとしたら…ちょっと淋しいわね)」
 考えにふけっている間、無意識にコーヒーを飲み終えていた。ティアはカップをテーブルに戻した。新しい話題は見つからなかった。
「君は…惑星環境制御課に所属しているんだったね?」
 突然チアキが話題を変える。ティアは頷いた。
「はい。制御の安定性をチェックするのが主な仕事です」
「安定………E-ユニットか」
「……ご存知なんですか…?」
 少し驚いた。惑星を実質上惑星として繋ぎとめている存在。それを知っている人物はエルステンの中でも少ない。どういう経路で知ったのだろう?保安局に睨まれれば逮捕されかねない情報なのに。
 ティアにじっと見つめられ、チアキは彼女から視線を逸らすと眉を顰めた。
「…君を信頼して…相談したいことがある…」
 呟く彼女は、いつもの勢いを少し欠いていた。
「……何でしょう?」
 ティアは少しずつ鼓動が速くなるのを感じていた。チアキはゆっくりとティアの方へ向き直ると赤い瞳を彼女に向けた。
「私は、『E-ユニットを制御するヒュプノス』の開発を進めている…」


 長い一日だった。
 コアルティンスから解放されたトナがシャトルに乗り込んでくる。手を振る彼女に、ティアも応えた。
 きちんと笑えただろうか。あまり自信がない。
―ハッチ閉鎖。出発します―
 行きと同じ無機質な音声は、ティアの耳を滑らかに通過していった。
 今日、チアキから聞いたことはしばらく自分の胸だけに留めておいた方が良いのだろう。もし他人に漏れれば惑星全土が混乱に陥るかもしれない。それはティアにとってもチアキにとっても本意ではないのだ。それに、それ程の勇気も権威も力も、この時のティアはどれ一つ持ち合わせていなかったのだから。

 時代が動くのはもう少し先の話。
 そして、その時の訪れを、その結末を、ティアは見届けることが出来なかったのである―。