Gene Over│番外編 Beginning of All

 宇宙暦二二一四年―。

 そこはいつでも静かだった。
 生きるものを拒む、ある種の神聖な空間だった。
 そこに生きることを強制された一人の青年。
 いや、これは生きていると言えるのだろうか。
 彼はこの惑星を守り続けている。
 守られている人々は彼のことなど知らない。この星が存在するのは必然であるなどと信じている。
 必然などでは決してない。
 罪は―重い。


「生体反応確認。…異常脳波検出」
 助手の声に、ティア・ディルナ・フォルシモは振り返った。針金のように真っ直ぐ伸びた赤みがかった金髪が揺れる。彼女は慣れないヒールを鳴らして助手に近づくと、腰に両手を当ててモニターを覗き込んだ。僅かに眉を顰める。助手は伺いを立てるかのようにティアの顔を見ている。
「フォルシモ博士…」
 あまりにも沈黙が長かったので、堪りかねた助手がティアに声をかけた。彼女はその声に反応すると助手の方を見て辛そうに笑った。
「嫌な仕事だわ。そう思わない、オルト?」
 助手、オルト・ディミオ・エルドは不思議そうな顔で上司を見ていた。彼は黒縁の眼鏡を指先で僅かに直す仕草をしてから彼女に言った。
「私は…有意義な、やりがいのある仕事だと思います。我々がここで『彼』を管理しなければ、この星に生きる何千という命が消え失せることになるでしょうから」
 何度と無く論じた議題。ティアはオルトの考えが変わらないことに無理矢理自分を納得させると彼から視線を逸らした。
「わかってるわよ。でも…彼は管理されることを拒否している。この脳波はそれを必死に訴えているのだと思うの」
「それは主観でしょう、博士。彼の精神は既に完全に消失して…」
「モノになってしまえば何をしても良いとでも言う気!?」
 オルトの言葉に強い反感を覚えたティアは射るような眼で彼を睨んだ。自分と同じ脳科学者としてオルトが優秀であることをティアは知っている。しかし、彼が自分より年上でありながら人間的に成熟しているとは思えなかった。
 倫理の崩れ。
 果たしてそれはこの宇宙のどこからやって来たのだろう。ティア自身の存在もその崩れの一端を担っていることを呪わずにはいられない。
 そうは思っても何も出来ない自分が更にもどかしい。
「……戻りましょう、上に報告しないと」
 ティアはそう呟くと、怒り覚めやらぬまま歩き出した。オルトも無言で機材を片付けると彼女に従った。
 二人が出て行った部屋の一番奥で、淋しそうに機械が励起した。その内部に眠る青年は身動き一つしないまま、生という定義を完全に捨て去り、ただそこに存在し続けていた。

 地下エレベータに乗る時間は十五分。誰が置いたものかわからないがその広い内部には申し訳程度に椅子がいくつか置いてある。ティアもオルトもそれには座ろうとせず、それぞれ逆を向いて無言でエレベータが地上に達するのを待っていた。
「………」
 エレベータの稼動音で互いの息遣いは聞こえない。ティアはそのことに安心した。完全な閉鎖空間。ティアはここが嫌いだった。オルトは何も感じないとでも言うように両腕を組み軽く眼を瞑っている。
「…これからの、予定は?」
 ついに耐えられなくなったティアが口を開く。オルトは慣れた様子で白衣の胸ポケットから携帯端末を取り出した。エレベータ内での沈黙を完璧に耐えられる程、ティアは大人ではない。それをよく知っているオルトは彼女を咎めようとはしなかった。
「地上に着いたらそのまま科学管理省へ行きます。本日の報告時に環境大臣がお見えになる予定ですので、どうかご無礼のないようにと指示されています。その後第十二研究所の改良型量子砲発射実験にご参加いただいて…」
「わかったわ、ありがとう。もう、いいわ…」
 うんざりとした様子でティアは溜め息をついた。嫌な仕事ばかりだ。出来る出来ないの問題ではない。選択の余地がないことが気に食わないのだ。フォルシモ家などに生まれてきてしまった自分を悲しく思う。
「(自由の惑星だなんて嘘だわ…)」
 故郷プロティア。フォルシモ家の本拠と言える惑星。出身地でありながらほとんど訪ねることのないその惑星を、ティアは心の中で毒づいた。言葉になんて出せるはずがない。出そうものなら―。
「着きましたよ」
 オルトの声に続き、鈍い音をあげてエレベータの扉が開く。外から吹き込む空調の風にティアは眼を細めた。
 地上と言ってもエレベータの内部となんら変わりはない。地上に出たからと言って緑の草原が広がっているとか、美しい海が広がっているとかいうことはない。人工惑星エルステンは科学力の結集した巨大コロニーなのだから。
 ティアはエレベータを降りると歩き出した。オルトが後ろをついてくる。科学管理省はこのレベルW機密区画からシャトルに乗って一度宇宙空間へ出ないと辿り着けない。移動の苦労はもう慣れた。寧ろティアは他の星での移動手段をよく知らない。

 科学管理省の建物は相変わらず殺風景だった。
 いや、科学管理省に限らない。実用性を第一とするエルステンではどの建物も皆一様である。
 一日中自動的に稼動している清掃ロボットの横を颯爽と通り過ぎ、ティアとオルトは通い慣れた部屋の前で立ち止まり、居住まいを正した。固い金属で出来た戸をティアがノックする。
「フォルシモです。定期報告に参りました」
「入りたまえ」
 厳かな声が伝わってくぐもって聞こえる。ティアは丁寧に戸を開け、中に入る前にゆっくりと頭を下げた。後ろでオルトも同じように頭を下げている。
「失礼します」
 ティアが中に入ると、オルトが戸を閉める音が聞こえた。部屋の中にいたのはほとんどいつもと同じ顔ぶれだった。
 行政委員長。行政委員副委員長。宇宙連邦軍エルステン圏司令長官。
 そして更に今回加わっていたのは環境大臣と、連邦軍特殊戦闘部隊EDF隊長―。
 環境大臣のことは聞いていたが、EDFの隊長が来ていることは知らされていない。アルソレイ・リオナシル・フォイエグスト。仕事柄、宇宙軍との共同研究に携わることもあるが、その際に軍人達が噂しているのを聞いたことがある。次期司令長官に名指しされる日が近いエリート軍人だそうだ。
 ティアは急に気が重くなった。いつもこの報告会ではただでさえプロティア人として白い目で見られ、辛辣な意見を聞かされるというのに、今日は更に第一級民(リオン)が二人も多いのだから。後ろに控えるオルトもさぞかし堅苦しい思いをするだろう。彼は第二級民(ディミオ)だ。ひどければ発言権すらまともに与えられないかもしれない。
「早速始めたまえ、フォルシモ研究員」
 行政委員長が低い声で厳かにティアを促す。ティアは溜め息をつきそうになるのを堪え、小さく深呼吸をすると報告を始めた。


 照明が自動的につく部屋。
 ティアは今にも崩れ落ちそうな身体を何とかリビングまで運ぶと、そのままソファに倒れ込んだ。
「……疲れた…」
 ぽつりと口元で囁いて、ティアはソファに置いた柔らかいクッションに顔を埋めた。先月十九になったばかりの彼女は普段誰にもこういった年相応の少女らしい面を他人に見せることはなかった。
 人類のために、惑星の存続のために、継承され続けるその頭脳を最大限に活用することを義務とする一族。
 ティアの生きる意味は、生まれる前から決まっていた。
 男だろうと女だろうと関係ない。年齢も関係ない。
 『フォルシモ家』の人間は最先端の科学を使って政治世界に大きく関与していく。それが必然。受け継がれるべき運命。
「やりたくてやってるわけじゃない…私だって…」
 泣きたい時だってある。たくさんある。
 でも涙を見せるわけにはいかない。足元をすくわれてはいけない。遠い惑星に住む同胞達のために。顔も知らない同胞達のために。
「おかえりなさい、ティア」
 静かに戸が開く。奥の間から入ってきたのは赤い髪と赤い瞳が特徴的な女性。
「トナ…ただいま」
 ティアは顔を上げると彼女に応えた。
「…お茶、いれてくるわ」
 トナはティアの表情を窺うように見つめると、そう言ってキッチンへ消えていった。ティアはそれをじっと見送ると両腕を組んだ。
「すごい学習能力…。最近、私の好みを完璧に把握してきた感じだし」
 ティアはその日の気分によって様々なお茶をブレンドして楽しむという趣味を持っている。トナが来てからというもの、彼女はティアの気分を敏感に感じ取って、疲れて帰ってくる彼女のためにお茶を一杯いれてくれるのだ。
 トナが人間ではなく機械であるなどと、一体誰が信じられるだろうか―。
「分量比、少し変えてくれたのね」
 いつものようにお気に入りのカップを揺らしながら、ティアはトナに微笑みかけた。トナが頷く。
「前回ローズが少なかったと言っていたから、今回は1.5倍にしてみたの」
「ばっちりよ」
「…良かった」
 トナの表情が幾分か和らいだように、ティアは感じた。そこまで細かく表情の動きがあるのかは不明だが、何日も一緒に暮らすうちに、何となくトナを人間的に見てしまう自分がいる。それほどトナは感情が豊かであり、言葉も流暢なのである。
「明日は久しぶりの休暇なの」
 ティアは伸びをしながらトナに言った。彼女はソファの横に置いてある椅子に座って小さく頷いた。
「久しぶりに、コアに会いに行こうと思ってるのよ。第七研究所まで行くから、トナも一緒に行かない?ルーズフトス博士に会いたいでしょう?」
「…ええ」
 トナが頷く。
 人型兵器『ヒュプノス』を開発したハイン人の科学者チアキ・ルーズフトス。齢七十に近い彼女は今もまだエルステンの衛星の一つである第七研究所でヒュプノスの開発を続けている。
「でも、少し怖い気もする…。ダースジアでの短期任務を終えて、No.2が帰ってきているから」
「No.2…ああ、確か…フィーノだったかしら?『デリートシステム』を持ってるっていう…。別にあなたを廃棄させるために連れて行くわけじゃないわ、怖がることなんてないのよ」
「…わかっているけれど、それでも…彼女に会うのは怖い。私達10ナンバーは量産試作型だもの。いつ廃棄されるかわからない…」
「トナ、ルーズフトス博士は友好の証にと仰ってあなたを私の元に置いてくれたのよ。あなたのことを廃棄するなんて…そんなこと思っていらっしゃらないわよ、大丈夫」
 自信なさ気に俯くトナを、ティアは優しく元気付けた。トナは頷いたが、納得しきれていないという様子である。ヒュプノス同士でも相性というものがあるらしい。ティアは改めて興味深く思った。フィーノというヒュプノスを実際に見たことはないが、きっとどこか怖い雰囲気の個体なのだろう。トナの怯えた様子を見ながらティアはそんな先入観に駆られた。


 いつもの白衣を脱ぎ、ティアは家を出た。後ろでトナが扉の鍵を閉める音を聞きながら、彼女はバッグから携帯端末を取り出す。エルステンの中でも選ばれた科学者しか利用出来ない、第七研究所までの専用シャトルの旅客券のデータがその中に入っているのだ。出発までまだ四十六分ある。途中で腹ごしらえが出来そうだ。トナは燃料補給の必要がないので少し待たせてしまうことになるが。
「さて、行きましょうか」
 ティアが振り返ったトナに笑いかけると、彼女は少し戸惑った様に頷いた。エルステンの人工的な光が徐々に明るさを増し、「昼」を演出していく。

 何ヶ月ぶりだろう。
 宇宙なんていつも見ているけれど、ゆっくりと眺めたのは遠い昔のような気がする。仕事が忙しくてそんな余裕どこにもなかった。窓の向こうの景色に目を背ける。
「…明る過ぎるわ…」
「…何か?」
 誰にも聞こえないように呟いたつもりだったが、トナには聞こえてしまったようである。シャトルの個室。他には誰もいない。ティアは観念したように俯いた。
「科学が発展するのが絶対に悪いことだとは言わない。でも…こんなに明るく照らされた宇宙は、何か…違う…」
 モニターの波形。
 何かを伝える波形。
 どこかが異常な…現実―。
「ティア…」
 冷たいものが肩に触れてティアは我に返った。トナが心配そうに彼女の肩を叩いていた。
「ごめんなさい。今日くらい…仕事のことは忘れなきゃ」
苦笑してティアは窓から目を背けた。