Gene Over│Episode5赤きヒトの涙 10涙の意味

 エヴェスの展望スペースから見たエルステンは、その先入観からかひどく恐ろしいものに見えた。遠目からも天然のものとは言いがたい地表。重力と大気を作り出す衛星が絶えず周囲を物凄い速度で取り巻き、各種宇宙船や施設が出入りを繰り返している。惑星というよりもケルセイのような要塞に近い。セフィーリュカはそういう印象を持った。
 徐々に近づいてくる緑色の惑星は不気味な程に人工的な光を放ち、セフィーリュカを迎えた。

 エヴェスが第八艦隊から孤立して入港することに、管制官は別段気にしていないようだった。予め作戦内容にハインでの単独調査が含まれていたことが幸いしたらしい。
「つまり、本隊はまだ旗艦の修理に躍起になってるってことね」
 メティーゼが馬鹿にしたようにそう言ってヴァルケータに笑いかけたが、修理の原因を作った張本人であるヴァルケータは黙っていた。艦長のフィックは渋い顔をして艦橋のクルーを見渡す。
「本隊が帰還してくる前に…言葉は悪いが、逃げた方が良いのだろうな。少なくともあなた方だけでも…」
 フィックに言われて、セフィーリュカは俯いた。
「すみません、私達のせいで…」
「気に病むことはない、私の独断なのだから。必ず、お母さんを見つけ出しなさい。これはエルステン政府の存続にも関わる大問題だ」
「はい、必ず」
 セフィーリュカが答えると、彼女の周囲を旋回していたムーンが突如ぴたりと止まった。
「どうしたの、ムーン?」
「危険が迫っています。至急退避を要請します」
「危険!?」
 セフィーリュカが驚いて声をあげると、エヴェスの警報が艦内に響き渡った。続いて、何者かが無理矢理通信装置に干渉してくる。
「こちら保安局。第八艦隊司令からの命により、貴船の入港に規制がかけられている。全武装を解除し、当局員の査察を受けよ。繰り返す…」
「既に連絡されていたか。保安局とは…分が悪いな」
 副艦長グラが悔しそうに天を仰いだ。
 保安局とはエルステンの政府直属の警吏集団であり、構成員の多くが第一級民、少数が第二級民という集団である。第三級民弾圧の執行者と言えなくもない。行政委員長であるアルソレイの次席秘書官として政治の道に足を踏み入れた女性、アーリア・ディミオ・ドクリズは現在の仕事以前はこの保安局でいずこかの支局長を務めていたという。今回の保安局の対応の早さは、もしかしたら彼女の力が働いているのかもしれない。それだけ彼女や行政委員長が招かれざるプロティアからの客人を重く見ているのか、そうであってもその理由は詳しくわからない。
 グラはモニタを見て青ざめた。エヴェスの機関が次々と機能を停止し始めているのだ。
「エンジンシステム停止、再起動受け付けません!」
「砲撃機関無力化!重度のハッキングを受けています!」
「強制シャットダウンだと!?これでは武装解除要求も何もないじゃないか…!」
 グラがフィックの方を振り向くと、彼は両腕を組んで呻いた。
「保安局にこれほどまでの権限や能力はない。やはり…裏で軍の干渉があるとしか…」
 不意にヴァルケータがフィックの前に進み出る。
「クローゼ艦長、総員退避を命じて下さい。七番ハッチから出れば、宇宙港臨時倉庫への通路に出られる。そこから抜け出して包囲網を突破するしか方法はありません」
「しかし…既に手遅れだろう。査察団が乗り込んでくるのは時間の問題だ」
「……俺が、艦橋に残って七番以外のハッチをロックします。時間稼ぎにはなるはずだ」
「ヴァルケータ、それは…!」
 フィックは目を見開いた。ヴァルケータの言っていることは彼をおとりにすること。それはすなわち…。
「何言ってるの、ヴァル!?」
 メティーゼがヴァルケータの肩を掴む。彼はひらりと彼女の方を振り返ると、彼女を抱き寄せた。
「なっ……」
 メティーゼは相棒の突然の行動に慌て、抵抗出来なかった。その隙にヴァルケータは10ナンバー共有のサーバーへアクセスし、素早く彼女のアダム内に自分の意識を強く干渉させた。大量の意識がメティーゼの中に流れ込む。
「…ヴァ、ル…ケータ……」
 外部情報の処理不能に陥ったメティーゼが一時的な機能不全を起こしてその場に倒れ込む。ヴァルケータは彼女をフィックに預けた。
「メティーゼを頼みます、艦長」
「ヴァルケータ、私は…私はお前をもっと…生かしてやりたかった…」
 フィックは悔しそうに震える声で呟き、唇を噛み締めた。
「その言葉だけで充分です。俺とメティーゼは、10ナンバーの中で一番…幸せでした」
 ヴァルケータは恩人に向けて、精一杯の笑みを見せた。

 誰もいなくなった艦橋。
 痛いほどの静寂。
 今思えば、ヴァルケータはこのような静かな場所を知らなかった。
 第七研究所にいた頃も、エヴェスに配属されてからも、いつも周りは賑やかだった。煩わしいとは思わなかったし、その喧騒がなくなることを想像したこともなかった。
「世界は、静かなんだな…」
 呟く言葉に同意するものも、反対するものもない。ここにはただ自分だけがある。
 自律するものが常に問うこと。
 自己と他者との決別。
 融合からの別離。
 それを果たした自分は今、幸せであろうか。
 ―寂しい。
 いや、少し違う。
 ―孤独。
 そうか、ニンゲンは孤独であるのだ。
「彼らに造られた俺達もまた…」
 不意に、背中に熱を感じた。
 熱源の方へ振り返ると、エヴェス艦橋の堅固な扉が焼け落ちていた。エヴェスの内部に侵入してきた保安局の査察団がヴァルケータに無数の銃を向けている。一般の査察団がするような兵装ではない。宇宙軍の白兵戦部隊の装備だ。
「これは反逆者を乗せた忌まわしき船だ。叛徒と虐げられたくなくば、クローゼ艦長達の行方を話せ」
 相手は、赤い髪に赤い瞳のヴァルケータがヒュプノスであることに気付いていないようである。エルステン宇宙軍の者であればヒュプノスの存在は周知されているはず。つまり、目の前の相手は保安局職員で間違いないのだろう。そして、保安局へ宇宙軍が武器を手回ししている。
「…………」
 ヴァルケータは何も言わず、ただ査察団を見渡した。ふと最後に艦橋で唯一動いているレーダーへと視線を移す。敵反応を示す赤い点が自分を取り巻いているのが見える。
 ヴァルケータは片手を自分の胸に、そこにある心臓部―イブ―にあてがった。
 偽りの鼓動。
 偽りの生命。
 それでも自分にとっては、全てのヒュプノスにとっては普遍の意識。
「…アクセス……自己起爆コントロールシステム…」
 ゆっくりとヴァルケータは言葉を紡いだ。意味がわからないといった表情で査察官が部下に銃を構えさせた。
「殺せ」
 一瞬の内に無数の銃弾がヴァルケータの体を貫いた。人工皮膚が剥がれ落ち、人工血液が溢れ出す。
 それでもヴァルケータは倒れなかった。
 ただ祈るように佇んでいる。
「……起爆、最終セーフティー……解除」
 自分の体内に熱が生じていくのを感じる。
 物理的な感覚。
 しかしその時彼は他の異変を感じた。
「…これ、は……?」
 眼窩から透明の液体が流れていた。
 皮膚に付いた血液に混じるたび透明度は薄れていくものの、確かにその透き通るような液体は自分の瞳から流れ出ている。
 ―涙。
 八年前に、フィーノが流したという涙。
 今なら…彼女の気持ちがわかる…。
「……メティーゼ……」
 伝えたかった。最後の仲間に。
 自分の感情。涙の理由。
 メティーゼは記憶並列によって自分の死を追体験することを辛いと感じるだろう。それでも、知って欲しい。10ナンバー最後の生き残りとして。
 自分の最期の意識を。
 どんなに満たされているかを―。
 次の瞬間、戦闘艦エヴェスは宇宙港のエリアを巻き込んで消滅していた。

 エヴェスを脱出した全員が、その音で反射的に振り返っていた。
 大容量の非常エレベーター内に爆風の影響はなかったものの、振動が伝わってきていた。
 セフィーリュカは透明な窓の向こうに爆炎を認めた。血のように赤く染まった港。今までそこにいたと考えただけで身震いする。あの場所にはもう、生命と呼べるものはただの一つもないであろう。
「……あれが…あれが、10ナンバー……」
 フェノンがぺたんとその場に座り込む。その赤い瞳は爆炎を捉えたまま動かない。セフィーリュカは彼女の隣に座り、そっと背中を抱いた。フェノンは振り向かない。
「…自分が死んで、人間を殺すことで、自分を…証明する…。そのことでしか…認識、されない…」
 彼女の震えた言葉には何の感情もこもっていなかった。
 人間はこういう時に泣くのだ。
 しかしフェノンは、彼女達は泣かない。
 彼女達にとって、涙の理由はヒトのそれとは異なるものだから。
「非常輸送庫下層B-7に出ました」
 エレベーターの扉が重々しく開いて、外の照明が薄暗い中を淡く照らし始める。生暖かい風を感じた時、エヴェスのクルーがセフィーリュカにその場所を告げてくれた。セフィーリュカが顔を上げると、フィックが全員を見渡して思案していた。
「さて、この人数でいかに逃げるか…」
 扉が開ききった先は、広く静かな倉庫だった。とりあえず周囲に危険はないようである。それでもエヴェスのクルー達は一人、また一人と慎重にエレベーターを降りていった。
「俺達も行こう」
 シェータゼーヌがそう言ってセフィーリュカとフェノンを立たせる。フェノンは虚ろな瞳で、前を行くコアルティンスが背負ったメティーゼを見ていた。セフィーリュカはそんな彼女の手を引くようにして、エレベーターを降りた。圧迫感のある空間の中で、凝らすように天井を見上げる。
「…姉さん……」
 フェノンと繋いだ手に、僅かな力を込める。


「良かったのか?」
 砲撃装置を操作し注意深く敵探知レーダーを睨みながら、デリスガーナーは声をかけた。ワレストスの狭い操縦席に、リフィーシュアが座っている。
「ええ…」
 二人は爆発の直前に、エヴェスの格納庫からワレストスを使って宇宙に脱出していた。
 エヴェスは完全に出入り口をロックしてあったので、少々乱暴だがデリスガーナーがワレストスの攻撃系統を集中的に担当してエヴェスの壁を破壊し、その間にリフィーシュアが操縦を全面的に引き受けて脱出したのである。デリスガーナー一人ではとても出来ない行動であり、プロティアのα型遺伝素養を持つ人間であるリフィーシュアだからこそ出来た芸当だと、デリスガーナーは瓦礫の間を寸分の狂いもなく操縦していく彼女を見て舌を巻いた。
「君がいてくれて助かった。また借りを作ってしまったな…」
「いいのよ。こっちこそ、この船がなかったらどうしようもなくあの場所で逃げ回ることしか出来なかったんだから」
 エヴェスにはワレストス以上の性能を持つ船が置いていなかったし、アロースティルもまだ修理されていなかったのだ。リフィーシュアは話しながら操縦桿を一気に倒した。エルステンのごちゃごちゃした衛星圏を突破したワレストスが更に速度を増す。
 二人は、プロティアとダスローの艦隊に助けを求めるべく漆黒の宇宙を駆け抜けていったのであった。


 エルナートは長い黒髪を翻して振り返っていた。赤い瞳に驚きが込められている。
「どうした、エル?」
 突然立ち止まった彼女を、ドーランが不審げに見る。
「熱反応が…。これは、爆発?」
「どういうことだ?」
 周囲の環境を感知することが不得意なドーランは苛立たしげにエルナートに詰め寄った。彼女はしばらく黙っていたが、突然目を見開いてドーランを見た。
「これは…この爆発は…10ナンバーの……自爆システム…!?」
 この言葉にはさすがにドーランも驚いたらしい。エルナートから視線を外して周囲を見遣る。
「近いのか?」
「遠くはないが…距離的には、宇宙港周辺…」
 エルナートもどこともなく見遣る。二人がいる場所からは煙も見えない。
「ヴァルケータかメティーゼか……くそっ」
「第八艦隊にいたはずなのに、なぜエルステンで自爆を…?」
「どうせ無理矢理システムを発動させられたに決まってる!許せねえ…!エル、行くぞ!」
「行くってどこへ?」
「爆発のあった所だ。自爆させた指揮官を…一発ぶん殴ってやらなきゃ気が済まないだろ!?」
「落ち着け、ドーラン。フィオグニル達のことを調査する方が先だ」
 エルナートが冷静にドーランをたしなめる。彼は納得していない様子で軽く舌打ちしたが、結局エルナートと逆方向に進み始めた。
「ドーラン!」
 引き止めるエルナートに、彼はぶっきらぼうに答えた。
「ここからは別行動だ。お前は調査を続けてフィオグニル達を元に戻せ。俺はヴァルケータかメティーゼの残った方を意地でも保護する。ニンゲンなんて甚だ信じられないことがわかったからな。…いつか廃棄されるまで、俺達は自分の意志を貫いてやろうぜ、エル」
「ドーラン……」
 エルナートが返事をする前に、ドーランは駆け出していた。見送りながら、エルナートは小さくため息をつく。
「……死ぬな、ドーラン」
 走り去る背中が消えた時、エルナートはぽつりと呟いた。


 アーリアが部屋を後にしてから、すっかり冷えてしまったネイティの遺体をヴェーズがじっと見つめていた。シオーダエイルはそんなヴェーズを観察している。
「心が痛むのではない?」
 不意にシオーダエイルが言ったことを、ヴェーズはすぐに理解出来なかったようである。数秒してから漸く視線を彼女の方に向けた。
「……なぜ?」
 逆に問われ、シオーダエイルは思わず黙り込んだ。
「ニンゲンを殺すことで、私は私を証明出来る。そこに感情の介入などない」
 ヴェーズは淡々と言い放った。
「…その証明するための行為も、ヒトの命令によるものなのでしょう?」
「…………」
「フェノンちゃんやエルナートと接して…私はあなた達がどんなに高度な感情を持っているか知ったわ。でも…そんな自我を持っているというのに、あなたはどうして命令者に逆らおうとしないの?」
「自我…」
 ヴェーズは質問の内容よりも、その言葉に関心を持ったようだった。彼女は自分の手のひらをじっと見つめた。シオーダエイルが更に言葉を続ける。
「あなた達の感情は、ヒトに似せて作ってあるに決まってる。それなら…あなたは、あなた達はヒトを殺す度に辛さを感じるはずよ。自分ではっきり知覚出来るかどうかはわからない。けれど、蓄積したその辛さはいつか自分に牙を向くのよ」
 ヴェーズは静かに話を聞いていた。聞きながら、ゆっくりと自分が殺したネイティへと視線を戻す。
「ラルネさんはもう戻ってこない。ヒトは、あなた達みたいに部品を交換すればいいというものではないのよ」
「私達だって同じよ。再生型は前駆体と同じ部品で作られるけれど、記憶は引き継がれないもの」
「だったらなおさら、あなた達にはヒトの痛みがわかるはずよ」
 シオーダエイルの口調は厳しかった。ヴェーズは彼女にひるむことはなかったが、困惑した様子で俯いた。


 窓の向こうで厳重に保護されているロズベルとシエスタを見ながら、レイトアフォルトは溜め息をついた。シレホサスレンに脅威をもたらす兵器を破壊するため捧げられたはずの自分達。しかし、無様な形で生き残り、何も出来ずにいる状態が続いている。
「ケルセイの皆…どうしてるかな…」
 そもそも無事なのであろうか。無事であって欲しい。全ては自分達の所為なのだから。彼らはただ純粋に神を信じて自分達を送り出しただけ。何も悪いことはしていない。
「…僕は無力だね。ロズベルに乗れるのが僕だったなら、一人でも戦えるのに」
 独り言ではない。彼の言葉に、数キロは離れているであろう距離にあるシエスタが淡く光を発した。激しい明滅は、決して彼の言葉に了承を示したわけではないようである。
「ごめん、シエスタ。そう、僕は君に乗ることしか出来ない。…でも、僕達は戦う力を持たない」
 防御に特化されたオーパーツ。それはロズベルの強大な破壊力を抑えるためだけに対として存在しているのであり、ロズベルが動かない限り使用価値はない。
「あの時と同じだ。君と会う前の『壊れた』僕と…。僕は何をしていいかわからなかった。ただ、ただ孤独だった。君が僕の心を解いてくれて、リゼッティシアの声が聞こえるまで、僕はどうやって自分を消すべきなのかとばかり考えていた…」
 古傷が痛む。何度も切った手首の傷が。
 シエスタの光が徐々に弱々しいものへと変わっていく。
「…わかってるよ。もうあの頃みたいに子供じゃない。だから…そんなに哀しそうにしないで」
 青年の言葉に安心したのかどうか定かではないが、シエスタは元の通りに沈黙した。