Gene Over│Episode4人間の尊厳 09暗黒

 ココハドコ?
 ボクハ…ダレ?

 暗闇の中で何かをすくい取るように両手を伸ばす。
 何もすくえない、掴めない、感じられない。
 そもそも、今伸ばしているのは本当に自分の腕なのだろうか。
 自分は闇の一部で形なんてそこに存在していないのではないだろうか。

「不安…?」

 自分を知覚出来ない。どこからが自分でどこからが自分じゃないのか。
 吸い取られた。
 そう、自分はあれに…飲み込まれた。
 いつか来ると思っていた。
 突然訪れた終焉?

「恐い…?」

 違う。
 不安も、恐怖も…感じない。
 ただ…悲しい。
 でも、涙も流せない。
 どこからが自分だかわからないから―。

「悲しい…?」

 そう、僕は悲しい。

「………それはあなたの感情じゃない!」

 光が差した。
 そこに誰かが蹲っていた。
 水色の髪、暗い色の服。
 こちらを向く。
 赤い…瞳。
 そう、僕はあの瞳に会っている。
 血の色だと思った。
 僕と同じように罪を犯すものだとすぐにわかった。
 僕と同じように孤独を知っているものだと、すぐにわかった。
 君は、名乗ってくれたね。
 自身を他者と区別するための言葉を、ぽつりと僕に教えてくれたね。

 ルド。

 そう、僕は君じゃない。
 君の悲しみは僕のものじゃない。
 僕と君とは似てるけど、違うものだよ。
 引き込まないで―。

 光が消えて、また現れた時、そこにルドの姿はなかった。
 代わりに物憂げな女性が立っていた。

「……自分を保っていて……レイト…」

 必死に腕を伸ばした。
 今度は伸ばした腕を、自分を知覚出来た。
 そう、それはきっとあなたがくれた光のおかげ。
 あなたは僕を知っている。
 僕もあなたを知っている。
 僕はあなたを探していた。
 僕はあなたを取り戻したいんだ。

 ………ッ!

 光と共に、彼女は消えてしまった。
 伸ばした手は反射で戻ってしまった。

 叫んだのに、あなたの名前はあなたに届かなかった。
 僕の名前はあなたが届けてくれたのに。
 もう、あなたはあなたではないの?
 もう、手遅れなの―?


 レイトアフォルトは冷たいシエスタの床の上で意識を取り戻した。涙が止め処なく流れる。理由はわからない。何も、わからなかった。
「…!」
 ようやく我に返った時、耳に入ってきたのは死にかけた親友の苦しそうな声だった。
「……レイト………レイ、ト…」
 通信機を通して聞こえる声が、今は非常に肉声に近い音で聞こえる。
「ディール、どうしたの!?これ…は……」
 何事、と言おうとしてレイトアフォルトは絶句した。シエスタの艦橋の大きな窓。その向こうに見える黒いはずの宇宙。それが今、不自然な赤に染められている。
 これはシエスタの見せる幻影だろうか。そうであるならどんなにいいことか。これは…現実だ。目の前で起きている惨劇は何もかも真実だ。
「あ、あ…」
 力なく、レイトアフォルトは両膝をついた。見開いた目が、赤い閃光を放ち続けているロズベル、その内部で血みどろになって立っている親友を凝視していた。
 僕の所為だ。
 僕の所為で、ディールが…死ぬ。
 僕が…殺、し…
「うわあああああああっ!!」
 レイトアフォルトの声に共鳴するように、シエスタは緑色の光を強めた。それに伴って、不気味に佇む眼前の兵器も同じ色の光を増していく。

―これは…そんな、まさか…―
 チアキが驚愕の声をあげる理由が、ルドにはわからなかった。ルドはただ恐くて、悲しくて、何もかも今すぐ消えて欲しいとだけ思っていた。
―No.44、タイムラナーを制御しろ!外部干渉を受けている!こんなこと、普通の人間に出来るはずが…―
 チアキの声は明らかに焦っていた。ルドはタイムラナーに手を伸ばそうともしない。そっと見遣って、緑色に光り始めたそれをただきれいだ、と思った。それだけだった。
「……レイト…?…壊して…僕を……お願い…皆、消して…」
 頭の中に残る僅かな記憶の中に鮮烈な印象を残している、深い緑色の瞳。ルドはチアキの意志とは反対の意志を持ってタイムラナーに手を差し伸べた。兵器の配線に邪魔されながらも、彼はかるく指先でそれに触れた。緑色の光が更に増長される。
―く…っ、お前も操りきれないのかい…。まあいい、計画は遅れるが仕方ない。…見ていてやるよ、複数のオーパーツの暴走という歴史的事象を…―
 チアキは観念したように落ち着き払った声で低くそう言うと、ルドへの干渉を止めた。何が起こるかわからない。これは宇宙の滅びの瞬間なのかもしれない。
 緑色の光は留まることを知らず、赤い閃光を凌ぐ速さで周囲全てを包み込み始めた。


 アロースティルの小さな船体はリフィーシュアの腕前か、赤い閃光を巧みに避けて航行していた。
「博士、研究所に帰るの?」
 目的地を特に定めていないことに気付きフェノンが問いかけると、コアルティンスは悲しげに首を振った。
「今は…あそこに戻れない。僕もとりあえずあなた達について行きます。この船で、行きたい所へ行って下さい」
 その言い方が何だか投げやりだったので、フェノンは少し腹を立てた。コアルティンスが研究所の局長を辞めさせられたことを彼女はまだ知らない。
「…ゼファー達が心配だわ」
 リフィーシュアが操縦桿を握ったまま呟いた。
「プロティアの艦隊、皆この宙域にいるのよね?ってことは、あの光が襲うかもしれないわ。もちろんゼファーの指揮を侮ってる訳じゃないけど、危険を伝えることは私達の義務じゃないかしら」
 ゼファー達宇宙連邦軍が既に閃光と対面していたことを一同は知らなかったので、異議を申し立てる者はいなかった。アロースティルはレーダーを頼りに、連邦軍艦隊の航行している場所を目指し始めた。
 『それ』が後ろを追ってきたのは目的地を定めてからすぐのことだった。シエスタとタイムラナーから放出された緑色の光は、宇宙を等しく包み込もうとしており、アロースティルも例外ではなかった。
「ちょっと、あんなの避けられな…」
 リフィーシュアがこの宙域で叫ぼうとした言葉は、その先に現れた闇により呑み込まれ、最後まで紡がれることがなかった。


 赤い閃光のやり過ごすことに全身全霊を傾けていた諸艦隊は、宙域全体を飲み込もうとする未知の緑色の光への対策を練る暇がなかった。
 危険を示す警報が全艦に鳴り響くが、これが自分達を切り裂く死の刃なのか、それとも福音をもたらす聖なる光なのか、全く知る由もなかった。
「一体何だ…あれは…?」
 回避のしようがないじゃないか。ゼファーは喉の奥で呻いた。突如判断に困った司令に、呆れたり怒ったりする者など誰一人としていなかった。皆が口をつぐみ、ただオーロラのように流れ来る光を呆然と見つめていた。
 その中で、不意にシェーラゼーヌが立ち上がり、強化ガラスの上の方を指差した。
「司令、見てください!あ、あれ…!」
 恐怖に震えるその指先にあったものは、まさしく巨大な『穴』であった。黒い宇宙の只中に、一際黒い穴が開いている。目を凝らしてよく見ると、それは一定の方向に回転しているようである。まるで、吸水口の蓋を開け放った時の水の流れのように。
「あれって…まさか……」
 シェーラゼーヌはゆっくりとゼファーを見遣った。彼は彼女の方を見なかった。じっと瞬きもせず、穴と睨み合っているようであった。彼は妙に落ち着き払った低い声で、ぽつりと呟いた。
「ブラックホール………」
 緑色の光がかぶさった瞬間、世界は闇に包まれた。