Gene Over│Episode4人間の尊厳 05遺伝素養

 プロティア宇宙軍第九艦隊の牽制から漸く解放され、彼らとの通信という大きな役目を終えたニーセイムは大きく息をついた。平和的交渉のため、話術の一番巧みな自分が通信役に推薦されたことは非常に光栄なことなのであるが、その分責任は重く、いつ交渉が決裂して攻撃されるのかと生きた心地がしなかった。
「……」
 ユグル院長へ報告するため廊下を歩いている途中、ふと大きな天窓の前で立ち止まる。漆黒の宇宙が見えた。今頃、レイトアフォルトとディールティーンは戦っているのだろうか。こうして二人、そして二つのオーパーツを戦場へ送り出すことは初めてではない。でも、今回は何だか不安だった。何か色々と大切なものを失うのではないかという、漠然とした不安。
「…っ…」
 きっと疲れているから、そんな風に思うだけだ。
 不安に思うことなんて何も無い。あの二人ならきっと大丈夫だ。
 アルセイトの加護がきっとあるはずだから。
 ニーセイムは天窓の前で、唯一と信じる神に祈りを捧げた。
「……?」
 ふと、人の気配を感じて彼女は振り返った。
 そこには一人の少女が立っていた。廊下の真ん中できょろきょろと辺りを見回している。レイトアフォルトが連れてきた客人の一人、名は確か、セフィーリュカといったか。彼女はニーセイムに気付くと、恥ずかしそうに俯きながら近づいてきた。腕にてるてる坊主のような形の機械を抱きしめている。
「あの、すみません。道に迷ってしまって…」
 彼女はプロティア人とは思えない流暢さで、ニーセイムにシレホサスレン語で話しかけた。レイトアフォルトから聞いてはいたものの、さすがのニーセイムもこれには驚いて、しばらく黙ってしまった。数秒後、困惑した表情のセフィーリュカにニーセイムはにっこりと微笑んで見せた。
「シレホサスレンの人間ではない方が私達の言葉で話してくれるなんて、これほど幸せなことはありません。神に感謝致しましょう…さあ、こちらです」
 ニーセイムは両手を胸の前で組み再び小さく祈りを捧げると軽く踵を返した。彼女の行動が理解出来ずきょとんとした様子のセフィーリュカをそっと手招く。セフィーリュカは我に返るとニーセイムの後をついて来た。
「申し遅れました、私は星間通訳のニーセイム・ハルグメラ。あなたは、セフィーリュカさんですね。レイトから聞きました。プロティアで彼がお世話になったそうで…私からもお礼を申し上げます」
「いえ、そんな。自転車を貸したくらいで…」
 廊下を歩きながら、二人は少し会話を楽しんだ。現役の星間通訳としてニーセイムも時々プロティア語を会話の中に織り交ぜたが、セフィーリュカほど滑らかではなかった。ニーセイムはセフィーリュカの言語能力を、生来持ち合わせた才能だと褒めた。
「なかなか、あなたのようにどの言語も流暢にというわけにはいきません。あなたはきっと、いい星間通訳になれますよ」
「あ、ありがとうございます」
 恥ずかしそうにはにかんだセフィーリュカに、ニーセイムは柔らかい微笑みを返した。
 本当にそう思うのだ。シレホサスレンとは違う文化、プロティアでは望まれない形質をコードする遺伝子が淘汰され、その中で選ばれたものだけがヒトとして生まれる権利を与えられる。目の前の少女はその選択を通過した尊き存在であるのだから。
 この世に生きる権利を、生まれながらに持っている。
 この世に生きる意味を、始めから持っている。
 羨ましい、いやそういう感情とは違う気がする。求められている、認められているということに、安定性を感じるのである。ニーセイムは、祖父ユグルに連れられてこのケルセイにいなければ、こうして星間通訳として生きることなどなかったであろうから。シレホサスレンの本土で、神に祈りを捧げる神官の一人として、大多数の中の一人として存在するしかなかったであろうから。
「セフィーリュカさん、一つ聞いてもいいかしら。失礼かもしれないけれど…」
 ニーセイムはあくまで穏やかにセフィーリュカに尋ねた。母星より遠き星、プロティアの住民はこのことを聞かれることにどのような感情を持つのか、ニーセイムは確かめたいと思っていた。
「なんですか?」
 邪気のない言葉が返ってくる。自分はこれから純粋な彼女に絶望を与えてはしまわないだろうか。一瞬だけ、ニーセイムは躊躇した。
「………あなたの…遺伝素要は?」
 問われたセフィーリュカが息を呑むのがわかった。歩く足を止め、怯えた表情でニーセイムを見つめた。
 やはり聞くべきではなかったのか。ニーセイムはケルセイに帰還したレイトアフォルトから聞いた。少女は自分と同じ様に自己の不安定さに悩んでいるのだと。遺伝子へ正確にコードされたことを遵守して生きていくことに、なんの不安を感じることがあるのかとニーセイムは思ったのだが、当のプロティア人にとっては、決められた遺伝子というのは何よりも不安定で恐ろしいもののようである。セフィーリュカの表情がそれを物語っていた。
「ごめんなさい。やはり失礼でし…」
「『α型』です…。親は二人とも『優良種』です…」
 思わず謝罪の言葉を投げたニーセイムを遮り、セフィーリュカは小さな声で、それでもはっきりとそう答えた。
「そう…ですか」
 ニーセイムは、辛そうに、でも気丈に自分を見てくるセフィーリュカからそっと視線を逸らした。しばらくして、セフィーリュカは俯いて口を開いた。
「…ごめんなさい。わかってはいるんです。自分の遺伝素要を、自信を持って言えないなんてプロティア人として情けないことだって…でも、でも私は…」
 セフィーリュカはその後の言葉を無理矢理飲み込もうとしているようだった。
 ニーセイムは彼女をしっかりと見据えた。ここで黙り込んでしまうことはセフィーリュカのためにならない。プロティアという星に捕らわれることは、決して彼女のためにはならない。
「話して下さい。私はプロティアの人間ではありません。何を言っても怒りません。あなたの思う、在りのままを話してくれていいのです。あなた自分自身を理解するために、きっと必要なことですよ…」
 セフィーリュカのために、ややぎこちないプロティア語で会話をしてきたニーセイムだったが、一転して滑らかなシレホサスレン語で彼女に話しかけた。プロティアの楔を断ち切ること、ただそのためだけを思って。
 セフィーリュカは顔を上げた。
「私、選択された遺伝子(セレクトジーン)で生まれて今ここにいる自分がわからないんです。確率的なものじゃなくて、必然として作られた存在の私は…私達は、機械と同じなんじゃないかって」
 セフィーリュカの言葉を、ニーセイムは真剣に聞いていた。
 確かに彼女の生は必然だったと思う。
 存在を求められた。
 …使用目的があったから?
 そうではないだろう。
「あなたのご両親は、あなたに何を求めましたか?」
「…え?」
 あまりに突然の問いに、セフィーリュカは困惑した。ニーセイムはどこか母性を感じさせるような優しい笑みを彼女に向けている。
「セフィーリュカさんは、将来星間通訳になりたいのですよね。それは、ご両親が望まれたことですか?」
「…いいえ。私が自分で…」
 言いかけて、セフィーリュカは何かに気付いたようだった。ニーセイムがどこか安堵したような表情で続ける。
「機械には使用目的があります。たとえどんなに小さなもの、あなたが大事そうに抱えているその機械にも、きちんとした使用目的があるでしょう?それは製作者によって意図されている。けれど、人間は…あなたはそうではありませんね?もちろん家柄もあるでしょうけれど、あなたはご高名なアーベルン大将の息女でありながら、軍人になることを強要されなかった。あなたの道はあなたが決められるように…ご両親がそう思われた瞬間から、あなたは『自由』だったのですよ。遺伝子に縛られることなど…ないのですよ」
 セフィーリュカは、ニーセイムの言葉を一語一語噛み締めていた。
 私は自分で自分の可能性を小さくしていた。
 出来ないことは遺伝子の所為にしたりしていた。
 それはとても愚かなことで―。
「わかった気がします。私の存在理由は…誰も作ってくれない。自分で…作らないと…」
 セフィーリュカは腕の中のムーンをきつく抱きしめた。
 私は、不安定じゃない。
 ―もう、迷わない。

 導いた廊下を歩いていく少女の背中を、ニーセイムはいつまでも見守っていた。少しおせっかいなことをしてしまっただろうか。いや、これで彼女が真っ直ぐ歩めるのであれば構わないだろう。彼女が星間通訳になれたとき、自分の故郷に誇りを持って活躍して欲しいから。
 プロティアは科学の箱庭かもしれない。
 しかし、そこに生きるものは決して人形などであってはならない。
 望まれない命などない。
 必ず何か…意味があるはず。
 プロティア人の心に神が存在するのかどうかは定かでない。
 恐らく、存在しないのではないだろうか。
 何よりもはっきりとした光を放つ存在であるプロティア人はある意味で人類を率いるにふさわしいのではないのか―。
「………」
 シレホサスレン人である自分にとって、唯一神アルセイトが最高にして最大の心の拠り所であることは揺るぎない事実だ。でも、神を持たない人類が存在するという奇妙さに、ニーセイムは身震いする。
「(…罰当たりなことを考えてはいけない…。そんなことをしたら、神だけでなく、ディールのことを否定することになる…)」
 ニーセイムは、『存在の罪』を問われ、オーパーツの起動者としての罰を受け続けている彼を想った―。
 ディールティーン・サルドはシレホサスレンの首都国家ロゼル皇国で、国を治める教皇の子供として生を受けた。ただし、妾の子として。彼は父親に認知されることはなく、口封じのため父親の臣下によって母親を殺された。ディールティーンは周囲からその存在自体を忌み嫌われ、『魂の浄化』と称した、皇国がアルセイトへ深い忠誠を誓う儀式の生け贄としてケルセイへ連行された。
 ケルセイの真実の姿は、表面的な軍事組織とは異なる。
 地上で罪を犯した者を、文字通り『矯正』するための組織―。
 ケルセイで行われる全ての行為は『神の赦しを得るため』のもの。そこにはいかなる非人道的なものをも含む。
 ディールティーンとロズベルとの直接結線も、その一つ。
 神の代行者による脅威の排除。そのための生け贄として、彼は攻撃に特化したオーパーツ、ロズベルを起動し制御するために体を改造された。
 壮絶な生き方を強要されたディールティーンは、神を信じてなどいないだろう。ニーセイムはそのことを知っている。彼にとって唯一の友人であるレイトアフォルトが、ロズベルの対となるオーパーツ、シエスタの先天的な起動者で、ディールティーンのような辛い人体改造を必要としていないこともディールティーンを深く傷つけているのだと思う。
 神など存在しなければ、彼もレイトアフォルトも、そしてニーセイム自身も、もっと違う人生があったのだろうと考えてしまう。
「…どうか、私をお許し下さい。私は…あなたよりもたらされた大いなる恵みを忘れたわけではありません…トルターテゼムアルセイト(アルセイトの御名において)」
 プロティア人の少女へ存在を肯定させるような手助けをしておきながら、その一方で今まで考えもしなかったことを迷い始めてしまった自分がいる。人間とはなんと弱い生き物だろう。湧き上がる思いを抑圧するかのように、ニーセイムは必死に祈りを口にした。