Gene Over│Episode4人間の尊厳 01罪

 剣型の宇宙船ロズベルは、一般的な宇宙船では考えられない速度で宇宙空間を進んだ。宇宙へ出ること自体が初めてのセフィーリュカには、その速度がどれほどのものか推し量ることは出来なかったが。
「すごい速度なのよ。…でもそのこと以上に、こんな速さで飛んでいるのに、内部にいて何の衝撃も揺れも感じないことが驚きだわ…」
 航宙士であるリフィーシュアはセフィーリュカにそう語り、ロズベルの艦橋にある機器と、それを一人で操っているディールティーンに興味を示しているようだった。機械と人間を直接結線し、人間の意志を伝えることでこのように巨大な船を動かすことが出来るなど、そんな技術は見たことも聞いたこともなかった。
「もうすぐ到着するよ。ほら、あそこ」
 レイトアフォルトがセフィーリュカの横へ立ち、窓の外を指さした。セフィーリュカが背伸びして外を見遣ると、宇宙空間の真ん中に球体が存在しているのが見えた。接近することで徐々に大きくなり、それが金属で出来た巨大な要塞のようだと判別出来るようになる。
「あれが、矯正院(ケルセイ)。僕やディールが、罪を忘れ、存在を許される場所さ」
「…罪?…許される…?」
 言葉の意味を理解出来ず見上げたセフィーリュカに、レイトアフォルトは答えなかった。

 球体をした要塞内部、ロズベルが降り立った場所は港と呼ぶには随分と寂しい景色だと感じられた。そして、ロズベルから降ろされた所でセフィーリュカ達を待っていたのは意外な人物だった。
「博士!」
 輝くような金色の髪に青い瞳を持った、どこか幼さの残る白衣姿の青年がロズベルを見上げるように立っていた。彼の顔を見た瞬間、フェノンが駆け出す。
「…フェノン!?どうしてこんな所に?」
 勢い良く走ってきた彼女を驚いた表情で抱きしめ、コアルティンスはここにいるはずのない自分の創造物に尋ねた。
「博士こそどうして?ここは何なの?」
「あの人誰よ?何て言ってるの?」
 二人が話しているのを聞きながら、リフィーシュアがセフィーリュカに耳打ちする。
「よくわからないけど…フェノンちゃんは『博士』って呼んでるよ?」
「博士って…あんなに若いのに?私とあまり変わらなそうよ」
 リフィーシュアがまだあどけない顔をしている青年を見て驚いた顔をする。やがて、フェノンがコアルティンスの袖を引いて来た。彼はセフィーリュカ達に向かって笑いかけ、丁寧に頭を下げた。
「フェノンがお世話になったようで…ありがとうございます」
 彼の言葉を聞き、一同は驚いた。フェノンだけは理解出来ないようで首を傾げている。
「プロティア語が話せるんですか?」
 エルステンとプロティアは不仲であると、セフィーリュカは身を以て学習していた。それにも関わらず、目の前のエルステン人と思われる青年は、プライドなどまるで知らないといったように、流暢なプロティア語を話している。
「ああ…私はプロティアの生まれなんです。コアルティンス・フォルシモといいます。よろしく」
「…フォルシモ?」
 差し出された手を握り、軽い握手を交わしたところでセフィーリュカは聞き覚えのあるその苗字を思わず聞き返していた。
 背後で物音がした。自分達が乗ってきた船、ロズベルが光を放っている。次の瞬間、それは物凄い速度で港を離れていった。レイトアフォルトはそれを見送ると、すたすたとセフィーリュカ達を追い越して目の前にある建物に向かって歩き始めた。数歩行ったところで一同を振り返る。
「立ち話もなんだから、中においでよ」

 矯正院(ケルセイ)は人工の球状要塞である。ロズベルの窓越しには全貌がよくわからなかったが、内部に入ってしまうと更にわかりにくい構造をしていた。ロズベルの内部が古代の遺跡風であったのに対して、ケルセイの内部は古代の都市風である。大理石でできた芸術的な建物はプロティアでは馴染みのないものであり、セフィーリュカはついきょろきょろと辺りを見回してしまう。
 コアルティンスも加わり、同じ様な景色が続く廊下を、ロズベルの時と同じくレイトアフォルトの後をついて歩いていく。コアルティンスも滞在期間がまだ短いらしく落ち着かない様子である。
「…!」
 レイトアフォルトが不意に立ち止まる。大理石にコツコツを響いていた足音がピタリと止む。全員の視線が廊下の先に転じられた。
 そこに立っていたのは一人の老人だった。裾の長いローブはいかにも超古代の哲学者のような装いである。片眼鏡をかけた老人の視線が、レイトアフォルトに向けられる。
「よく戻ったなレイト…」
「はい…院長」
 彼にしてはいささか話し方に棘がある、ようにセフィーリュカは感じた。
「客人を連れて帰ったか。…あまり感心せんな」
 招かれざる客、そんな気がして、老人がレイトアフォルトを通り越して自分の方へ向かって来たとき、セフィーリュカは心の中で身構えた。
「…名は何という?」
「…セフィーリュカ・アーベルン…です」
 老人は客がどこの惑星の人間であるかまでは判断しなかったらしい。彼女がシレホサスレンの言葉で質問に答えても特に動揺しなかった。ただ、他の点で驚いたようである。
「アーベルン…?そうか、無関係ではないと…」
「え?」
 セフィーリュカは聞き返したが、老人は答えることなく彼女の横を通り過ぎていった。
「あのおじいさん、一体何を…」
「あの人はユグル・バリ。ここの最高責任者だよ」
 セフィーリュカは意味がわからずその場に立ち尽くした。レイトアフォルトが老人の背中を見送りながら呟く。そしてくるりと振り返ると、また歩き出した。
 通された部屋はどうやら会議室のような場所らしい。長い机の上に色々な書類が散らばっている。その一部を、コアルティンスが片付け始めるのを見てフェノンも手伝った。
 レイトアフォルトは案内を終えると、やることがあるから、と部屋を出て行ってしまった。ユグルと会話を交わしてから、彼になんとなく元気がないような気がして、セフィーリュカは気になった。
 彼が出て行ってしまってどうしていいかわからず皆しばらく沈黙していたが、コアルティンスが不意にフェノンに声を掛ける。
「どうしてこんな所に?皆はどうしたんだ?」
 皆、とはフェノンと同じくダースジアに配備されているヒュプノス達のことである。フェノンはプロティアで起こったことを全て彼に話した。
「フィオグニルが暴走…?馬鹿な、確かに彼を作ったのは僕ではないけれどメンテナンスはきちんとしてあったはずだ。今までそんなこと一度も…」
「あたしだって、あんなフィオ見たことないよ!でも、セフィーお姉ちゃんのお母さんを…」
「…やはり、この一件はルーズフトス博士と関係が…?」
「え?」
「いや、こっちの話だよ」
「じゃ、今度はあたしの質問に答えて。博士はここで何してるの?」
 フェノンに尋ねられると、コアルティンスは先程片付けた書類を彼女に渡した。
「ある兵器の調査を頼まれてね。…プロティア人のあなた方ならご存知でしょう、カナドーリアを消滅させた…」
 フェノンが書類の表紙を皆に見せた。そこにはプロティアで何度となく報道されたおぞましい兵器の写真が載せられていた。
 セフィーリュカはふとシェータゼーヌのことが心配になり、隣に座っている彼を見た。彼女の視線に気付いた彼は、大丈夫、と言って頷いた。
「宇宙連邦軍が必死に対処しようとしているように、このケルセイという組織も、この兵器に対抗しようとしているようです。それを補助するための科学技術者として、私はここに呼ばれました。でも…それだけで終わらないかもしれません」
「どういうこと?」
 プロティア語で語られた内容にリフィーシュアが聞き返す。
「この兵器を造ったのは…私の師である可能性があります。私は…師を一番近くで見ていながら、このように圧倒的な殺傷力を持つ兵器の完成を阻止することが出来なかった…。『監視者』として…失格です」
「監視者?」
 突然聞きなれない言葉を聞かされ、セフィーリュカは思わず反復していた。それに答えたのは意外にもシェータゼーヌだった。
「フォルシモ家の異称だな?…宇宙全土の科学技術を牛耳っているフォルシモ家の人間は、誰もが同じ父親の遺伝子からほとんどクローン同様に作られて各惑星に送り込まれる。そこで新しく開発されてくる科学技術が文明に合致したものかどうかを判断して、宇宙全体の科学の均等化をはかっているそうじゃないか」
「…あなたのことも知っていますよ?カナドーリアで史上初めて同位体(アイソティア)の素体となった、シェータゼーヌ・トロキスさん。いえ、今はコルサさんでしたか?」
「………」
 シェータゼーヌはコアルティンスを睨み付けた。彼が自分と、自分の遺伝子から造られた同位体であるシェーラゼーヌの存在を知っていることの予想は大方ついていた。フォルシモ家の人間と相対するのはこれが初めてだが、シェータゼーヌは直接会った機会に、どうしても尋ねてみたいことがあった。
「当時のカナドーリアにもフォルシモの人間はいたはずだ。あの星にあんな技術は必要なかった。それなのに、なぜ父の研究を放っておいた?そのおかげで俺は全て失ったんだ」
 コアルティンスは悲しそうに唇を噛み締め、俯いた。
「それは、宇宙連邦…そして、フォルシモ家に必要と判断されたからです。確かに、同位体技術は一歩間違えれば非常に危険なもの。しかし、我が一族の管理下にあれば有用な手段と…」
「ふざけるな!」
 シェータゼーヌは不意に立ち上がり、コアルティンスの胸倉を掴んだ。プロティア語の会話内容がわからないフェノンは、突然の出来事に驚いて立ち尽くしている。
「シェータさん、やめて下さい!」
 セフィーリュカとリフィーシュアは慌てて立ち上がりシェータゼーヌを止めようとした。コアルティンスは彼と目を合わせず、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「…あなた方が被害者であることは、私達も認めています。だからこそ、あなたとあなたの同位体はプロティアへの移住が可能だったのですから」
「何だと?」
「文明レベルを超えるような禁忌を犯した者の家族を、その遺伝子を、宇宙連邦政府がそう簡単に赦すでしょうか?科学技術の倉庫とも通称されるプロティア政府、更にはその中に深く通じるフォルシモ家の意向があったからこそ、あなた達は生かされたのです」
 シェータゼーヌの腕から力が抜ける。生かされる意味、そこに道徳は存在しない。
 プロティアはやはり罪深い星だ。
「…あんた達、何様のつもりだよ…それじゃ、プロティアに住む人間は…科学に閉じ込められた囚人じゃないか…!」
「…そうかもしれません…。多くのエルステン人が、プロティア人を批判する理由の一つなのは確かです…」
 エルステンに住み、彼らと同じ視点で故郷を見ることを強制されたプロティア人であるコアルティンスの言葉は、悲愴に満ちていた。
「私達は…科学技術の中…箱庭の中の…人形……?」
 セフィーリュカは急速に理解していた。
 自分の空色の髪、空色の瞳。
 レイトアフォルトとの問答。
 自分の存在価値。
 造られた…生命―。
 他の星の人間ともヒュプノスとも異なる特質。
 選ばれた、量産可能な―。
「レイトさんは、『アーベルン』の人間を必要としてる…?」
「え?何言ってるの、セフィー?」
 思ったことを口にして、セフィーリュカは考え込んだ。リフィーシュアが妹の顔を覗き込み、目の前で片手をひらひら動かす。
「あ…ご、ごめんなさい。何でも、ないの…」
 不可解な発言を聞かれたことに恥ずかしくなり、セフィーリュカは俯いた。
 シェータゼーヌはコアルティンスから離れると、彼の顔を見ずに小さな声で謝った。
「すまない。ついカッとなって…」
「いえ、私も長くエルステンにいると、同じ遺伝子を持っていても本家の考えがわからなくなることがあります。…容認することが難しいことなど、世の中には数え切れない程ある」
 コアルティンスは自分の創造主に掴みかかったシェータゼーヌを不審気に見ながら立ち尽くしているフェノンを哀しげに見ると、彼女の頭を優しく撫でた。そのまま部屋を出て行こうと歩いていく途中、ゆっくりと立ち止まるとシェータゼーヌに背を向けたまま呟いた。
「私は…自分の同位体、自分と同じ遺伝子を持つ人間とうまく過ごせているあなたを尊敬します。…私は、同一ではないのに認めてもらえなかった」
「…それはどういう…?」
 コアルティンスが問いに答えることはなかった。書類を置き去りにしたまま静かに退室した彼を、フェノンが急いで追いかけていった。


 ケルセイの港。
 そこは、ロズベルが停泊する港と対をなすように造られていた。
 そしてやはり『剣』と対をなすように、『盾』型の宇宙船が静かに停泊している。
「ただいま、シエスタ」
 レイトアフォルトは宇宙船の前に立つと、懐かしそうにその名を呼んだ。物言わぬはずの船が、まるで彼の声により眠りから覚めたかのように光を放ち始める。レイトアフォルトは寂しげに目を細め、指先で冷たい機体に触れた。
「…君が教えてくれた通りだったよ。…やっと、見つけた…」
 指先にまとわりつく光が、七色に色合いを変えていく。しばらく指先で光を遊ばせた後、レイトアフォルトはシエスタの機体を手のひらで撫でた。
「うん。そうだね…。まずは、僕達の使命を果たさないと」
 レイトアフォルトの体が光に包まれる。港に立つ彼の姿は忽然とその場から消え去った。
 目を開くと、見慣れた広間がレイトアフォルトを迎えた。
 最低限の機械装置だけが存在する艦橋。高い天井を見上げると、一人奈落の底へ落とされてしまったような孤独感が心を支配しそうになる。
「Fia frachel ye phesc ra onette wee」
   『僕はただ、光を求めて手を伸ばす』
 呟かれた声に、シエスタの全機能が目覚める。振動も生じさせずに浮かびあがると、そのまま漆黒の宇宙へと吸い込まれるように消えた。

 自分の存在は罪だと思う。
 それを知っていながらここにいる自分が嫌いだ。
 でも、やはり居場所はここしか無かった。
 彼も、そして彼女もそうだったのだろうか。
 だから…選んでしまったのだろうか。
 誰にも気付かれない、誰の目にも美しい犠牲。
 多分、一番楽な道。
 ……馬鹿馬鹿しい。
 僕は…逃げたい訳じゃない。
「…ト。……レイト!聞いているのか?」
 頭の中に声が聞こえる。別にテレパシーじゃない。僕と彼とそれぞれの機体は繋がっているから。
 シエスタの通信機能が僕の思考を打ち消す。故意に無視していた訳ではないけれど、他のことを考えたい気分なんだ。親友の声も、今は煩わしい。
「ディール、何か見つけた?」
 僕の身体はシエスタの中で自由だ。そこはディールティーンと違う。彼はロズベルのシステムと身体を『直接』リンクさせないとロズベルを起動出来ないけれど、僕はシエスタと『会話』することで起動出来る。
 シエスタは壊れかけた僕を助けてくれた存在であり、同時に、僕のことを強く束縛する存在でもある。
「そろそろ例の兵器と接触する。気を引き締めろ」
「…了解」
 ディールティーンが通信を切る。何だか苛立っているみたいだけど、僕の所為なのかな。
「…行こうか、シエスタ…」
 声をかけると、シエスタは鈍い駆動音を発してそれに答えた。

 剣(ロズベル)と盾(シエスタ)。
 二つのオーパーツは、孤独な戦場へと旅立っていく。


 プロティアへの退避を進める途中、ケルセイと遭遇した第九艦隊はそのまま当該域に留まっていた。ケルセイが宇宙連邦軍の敵ではないらしいことはわかったが、正規の軍隊でない彼らを放置しておくことに抵抗を覚え、ミレニアスは警戒を解くことが出来なかった。
「私達の邪魔をなさらなければ、こちらからそちらへ何かすることはございません。それが院長の決定です」
 通信スクリーンの向こうで朱色の髪の女性星間通訳が薄く微笑んでいる。この宙域には現代科学の頂点に立つと思われる程の凶悪な兵器が存在しているというのに、眼前の彼女はまるでそのことに恐怖を覚えていないようである。ミレニアスは彼女の表情にどこか気味悪さを覚えて眉を顰めた。ケルセイは一体何をしようとしているのか。先刻、その球状の要塞から飛び立った不思議な形の宇宙船のことも気になる。
「先程の二機は…?」
「あれは、私達の『希望』です。心配はいりません、アルセイトは私達をお見捨てなさいませんから…」
 ミレニアスは思わず溜め息をついた。ずっとこの調子である。この星間通訳の口から『アルセイト』という単語を何度聞いただろう。
 シレホサスレンは領土の関係上宇宙連邦に属しているものの、宇宙連邦政府も宇宙連邦軍も介入を許されない完全なる自治惑星である。この広い宇宙にあって珍しく少数の民族で構成されており、他星の人間を排斥する風潮が強い。そんな彼らは『アルセイト』という名の、彼らが唯一絶対だと信じる神を持ち、何かにつけて神の御心のままに、と行動する。ケルセイは『神の代弁者』『救済の組織』…そんな胡散臭い台詞をミレニアスはずっとこの星間通訳、ニーセイム・ハルグメラから聞かされていた。
「あなた方が何を思ってこんな危険宙域まで来ているのかわかりませんが、仲間が…正規の宇宙連邦軍があの兵器を駆逐するために戦おうとしています。私達としては、あなた方に彼らへの協力を望むのですが…」
 ミレニアスは兵器と挑む覚悟を決めたスルーハンのことを思い出した。彼は自分が犠牲になり築き上げたものの上に誰かが立っていてくれればいい、などと言っていた。仲間として、もし方法があるのであれば、そんな孤独な戦いを強いられている彼を救いたい。一時は彼の言葉に従い戦場を離れることを決めた。指揮する艦隊の構成員を危険に曝すことはしたくないし、自分自身死にたいとは思わない。しかし、今になって彼女は迷い始めている。それこそ『希望』が目の前にあるのであれば。
「残念ですが…」
 ニーセイムが笑顔をあまり崩さず、少しだけ淋しそうな顔をした。
「シレホサスレンは宇宙連邦とも、銀河同盟とも、関係を持つことを望みません。同盟軍の兵器を相手に戦う連邦軍に協力することは出来ません。もちろん、同盟軍に手を貸してあなた達を攻撃するなどということもしません」
 きっぱりと彼女は言ったが、その言葉を鵜呑みにして良いのだろうか。彼女はただの星間通訳である。別に通訳を卑下している訳ではないが、大きな組織の中で彼女の思っていることがそのまま組織の思っていることであろうか。そう考えると何だか恐ろしく、ミレニアスは余計ここから動けなかった。自分達がここにいて牽制していなくては、彼らは第十七艦隊に向けて進軍するかもしれない。その可能性が低いことを頭ではわかっているが、それでも恐かった。


 今、どの辺りを飛んでいるのだろうか。外の景色はずっと変わらない。どこまでも続く黒。
―宇宙を見てみたかっただけなんだよ―
 声が聞こえた気がして、虚空を振り返る。誰もいない。
 八年経った今でも、つい昨日のことのように思い出せる夫の声。その言葉。
「…ごめんなさい…」
 答えはなかった。望んでいる訳でもない。なぜ、誰に謝ったのかすらわからない。まるで他人の声のように、震えた自分の声が反響する。シオーダエイルは俯いてすすり泣いた。ひどく孤独だった。長い歳月を経ても、涙は枯れることはないのか。
 この宇宙船、ゴートホーズに乗せられてからずっと考えている。八年前の『あの事件』。夫が、カオスが凶弾に倒れたあの日のことを。
 彼が殺された瞬間のビジョンは脳裏から離れることがない。銃で撃ちぬかれた傷から血が溢れ出る光景を今でも時々夢に見る。撃った相手の顔も、おぼろげながら覚えている。
 しかし、どうしても思い出せないのは―。
〈シオーダ…逃げろ…〉
 なぜ夫は狙われなければならなかったのか。
〈秘密を知る者を生かしては…〉
 私達はなぜエルステンにいたの?
〈人の命を何だと思って…〉
 任務―それはわかっている。
〈ここに生きる人間は皆…罪人です〉
 …どんな?
〈私…こんなことのために…〉
 EDFとはそもそもどんな組織だった?
 プロティア人やエルステン人、ダスロー人も混じった軍の特殊部隊で…。
「………っ」
 頭痛がする。駄目だ。そのことを思い出そうとすると何かが、身体のどこかが拒否する。
 この記憶さえ蘇れば、自らが連れて行かれる理由もわかるはずなのだが―。


「博士!博士ってば!」
 部屋を後にしてから、コアルティンスはただケルセイの長い廊下を真っ直ぐ歩いていた。フェノンがその後を走ってついていく。彼女に何度も呼び止められて、コアルティンスは漸く速度を緩めた。徐々に減速して、ついに廊下の真ん中に立ち止まる。
「…博士?」
 いつもと様子が違う。フェノンはそう思って、彼の一歩後ろで立ち止まった。
「…プロティアか……」
 コアルティンスの声は微かに震えていた。彼はすぐに押し黙り、しばらくしてからフェノンに振り返った。あと数か月で漸く成人を迎える、若い科学者は今にも泣きそうな表情でフェノンを見た。
「ごめん、何だか感傷的な気分なんだ。…フェノンにはこの気持ち、わかるかい?」
「……わかんないです…あたしのプログラムじゃあ…」
 コアルティンスは、そう言って俯いたフェノンの前に膝をつく。
「ごめんね、そのことは僕が一番良く知っているはずなのに。…いつか君にももっと高度なプログラムを…」
「違うの」
 フェノンに言葉を遮られ、コアルティンスは驚いて彼女を見つめた。
「あたしは…高度なプログラムなんか欲しくない…。それは、もちろん博士のことをわかってあげたい。けど…違うの。感情って、きっとプログラムじゃ表せない…。よく、わかんないけど。プロティアに降りて、あたしそんな風に学べた…気がするの」
 フェノンはそこまで一気に喋って、途中で自分自身でも訳がわからなくなったのか、眉間に皺を寄せて考え込んでしまった。演算装置の人工脳アダムは何も教えてくれない。数字のデータがいくら叩き出されても、そのデータが言葉に変換されない。もどかしい。けれど、自分にはこれで十分なのだろうとも思う。
「フェノン…大きくなったね」
「はあ?」
 脈絡もなく、コアルティンスが突然笑いかけたので、フェノンは思わず声を裏返して聞き返した。
「プロティアで良い経験を積んだね、フェノン」
 コアルティンスはそう言ってフェノンを優しく抱きしめた。お互いの鼓動が伝わる。
 博士も作り物の生命―?
 フェノンは自問しながら、そっとコアルティンスの表情を覗った。彼は微笑んでいた。いつものように、優しく。そのことがフェノンの気持ちを落ち着かせる。
 こんなに感情を表して動いている。これがきっとホンモノの『人間』。そう信じている。あたしはきっとこの人を拠り所にしていけば大丈夫。
 ふと目が合って、二人は揃って笑顔になった。
 そう、この笑顔を見られれば大丈夫。
 どれだけの価値なのか、きっとお互いにしかわからないのだろうけど。多分、これ以上のものを得ることはとても難しい。
「これから、博士はどうするの?」
 再び廊下を歩き出してから、フェノンはコアルティンスを見上げた。
「例の兵器を停止させる方法を考えなければならないね。しばらくは研究所へ帰れそうにないかな」
「あたしはどうすればいいの?何か博士のお手伝いが出来るかな?」
「気持ちは嬉しいけど、フェノンにはちょっと難しいよ。僕のことは大丈夫。君はあの人達について行くといい。あの人達はエルステンに行くんだろう?フィオグニルを止めようとしているなら尚更…君といた方がいい」
「あたしに、フィオを止められるかな?」
「フィオグニルは観測用だから、戦いには向かないんだ。基本的な戦闘力なら君の方が断然上だよ。ただ気になるのは…プロティアで君を撃つ事が出来たことなんだけど…」
 フェノンはフィオグニルに撃たれた右胸の痛みを思い出して思わず目を瞑る。コアルティンスは心配そうに彼女の顔を覗き込んだ。
「あたしはフィオに銃を向けて牽制しようと思っただけなのに、全然引き金に力が入らなかった…なのにフィオは、簡単にあたしを…」
 コアルティンスは両腕を組んでその謎について考える。
「前回の調整の時は、そんなプログラムが発動するような兆しは見られなかったんだけどな…。そもそもプログラムの内容が僕には理解出来ない。プロティア人を誘拐することにどんな意味が…?」
「セフィーお姉ちゃんのお母さんが何か隠してるみたいだったことも気になるんだよね…」
「プロティア人を無差別に誘拐したってことじゃないんだね。ますますわからないな」
 フェノンは考え込んだままのコアルティンスからそっと離れた。今まで歩いてきた方に戻っていく。
「わからないことだらけだけど、あたしはとりあえずセフィーお姉ちゃん達と一緒に行くね。博士もお仕事頑張って!」
 一度だけ立ち止まって振り向くと、そう言って再び歩き出した。コアルティンスはその姿を静かに見守る。
「強がることを覚えたのかい?…フィオグニルは一番君の気持ちを理解でき得る存在だったのに…」
 呟いた言葉は、立ち去ったフェノンには届かなかった。
 コアルティンスは、誘拐されたというシオーダエイルについて改めて考えた。一介の主婦にどんな秘密があったというのだろう。フォルシモ家の情報網を駆使すれば、そんなことすぐに調査出来るかもしれない。
 しかし、そんな権利は自分にないだろう。そのことがさっきのことでよくわかった。
 コアルティンスはシェータゼーヌに掴まれた襟元をさりげなく気にして直した。そこに込められた力、思い。フォルシモ家に対する恨み。これまでコアルティンスはそれから逃げていた。エルステンの研究所で、せめて宇宙連邦のためになるようにとルーズフトス博士のヒュプノス研究を引き継ぎ、ほとんど休むことなく働くことで本家との距離をとろうとしていた。でもそれはただ本質を見ようとしなかっただけで、卑怯な逃避でしかなかった。
 そんな小さなことで被害者の気持ちが休まる訳ないじゃないか―。
 良かれと思ってしてきたこと、それが余計に自分の存在を縮めていたことが悲しい。シェータゼーヌも、彼の同位体も、きっと何年も自分の存在の正しさに悩みながら生きてきたのだろう。彼らが悩む必要などないのに。
 寧ろそのことに苦悩すべきなのは僕達なのに…?
 ふと、母の顔が思い浮かんだ。母…いや、『姉』か?時々定義出来なくなる。父系遺伝子は全く同一のものなのだ。彼女は遺伝子提供を義務とされただけで、コアルティンスのことを息子だとは思っていない。それどころか、数回しか会ったことがなく、怒りや恨みの言葉を吐きかけられたような記憶しかない。
「(…ラノム母さん。あなたはまだ僕の存在を認めてくれていないのでしょうね)」
 悪気はなかった。
 ただ、心配だっただけ。
 人は、犯そうと思って罪を犯すわけではない。
 でも、自分の行動が彼女をひどく傷つけたことは、偽りようのない事実で―。