Gene Over│Episode2空と血の邂逅 10矯正院

 闇が動いた。
 空を突き破り。
 使命を果たすために。
 自分を定義するために。

「航行システム異常なし」
「ステルス動作異常なし」
「全砲、動作異常なし」
 一様の制服を着た者達の声に、一人緩やかなローブを纏った老人はゆっくりと頷くと、厳かな声を発した。
「剣(ロズベル)の準備を」
 老人の声を受け、部下が機械のコンソールを操作する。通信機の接続が完了し、年若い青年の、やや戸惑った声が室内に響く。
「矯正院(ケルセイ)のステルス状態を解くと?しかしあいつが…盾(シエスタ)を操ることが出来る者がいません。ここは惑星付近です。ロズベルが制御不能に陥った時、それを連邦の戦闘艦程度の能力でどうにかできるという保障があるでしょうか?」
「彼の捜索は続けている。しかし発見を待っている時間は残されていないのだ。いつからそんなに慎重になった?お前らしくもない」
 老人は小さくため息をつくと、片眼鏡の端を皺枯れた指先で軽く押し上げた。青年は数秒押し黙った後でまた声を発した。
「俺はいつでも慎重です。しかし今回は…先程の博士の話を聞く限り、相手を甘く見るのは危険であるように思うのです」
 青年の抱く懸念。老人は背後の扉に目を向けた。そこには現在誰も立っていないが、先程まで一人の若い研究者がいた。参考人として搭乗しているエルステンの研究者だ。彼は今頃データと睨み合い、対策を考えている最中なのだろう。でも、それを待つ暇は与えられていないように思える。
「確かにそうかも知れぬ。しかし、我らは使命を果たさねばならぬのだ。たとえ他惑星に住む民の命が失われようとも。…わかるな、ディール」
「…はい、院長」
 老人の言っていることが正しいことを、青年、ディールティーンは理解している。しかし、心の奥底で、どうしようもなくやり切れない感情が湧き上がることもまた事実であった。
 通信を終える。
 自分の周りに誰もいない静かな空間で、ディールティーンは誰にも聞こえぬような小さな声で友の名を呼んだ。
「レイト…一体どこへ行ったんだ…」


 第九艦隊は第十七艦隊司令スルーハンの要請通り、プロティア方面に向けて退避を始めていた。とても納得出来る後退ではないが、スルーハンの覚悟を知ってしまったミレニアスにとっては、無理にあの場に押し止まる理由を見つけることは到底出来なかった。
 それとも、自分もやはり恐れているのだろうか。
 全てを失うことに。
 踏み出す勇気を振り絞ることが出来ていないだけなのだろうか。
 不意に、ミレニアスは息子の顔を思い出した。プロティアに残してきた、五歳になる一人息子。今頃独りぼっちで淋しい思いをしているだろう。自分と同じ宇宙連邦軍人で、実動戦闘艦隊に所属していた夫は既に戦死してこの世にいない。その悲しみを癒すために、結婚当時に登録しておいた彼の遺伝子と自分の遺伝子を使って作り上げた息子。自分の都合で作っておいて、自分はいつ死ぬとも知れぬ戦地に赴いているのだ。残された者の辛さを、自分が一番知っていると思っていたが、それを息子にも強制しているのだ。今、そのことがいかに傲慢であるかが理解出来る。そして、何としても生きて帰らなければならないという気持ちが、今更ながら心の奥で芽生えていた。
 これは恐れではない、生への執着なのだろう。
 守らなければならないものは人それぞれなのだ。ミレニアスは息子と、彼を見守っていく自分自身であり、スルーハンにとって守るべきものとは、前を向いて物事に立ち向かい、何かを残すことなのだろう。彼女はそう考え、仲間を見捨ててしまったのではないかという罪悪感から、必死に逃れようとしていた。
 一体どれくらい、そんなことを考えていたのだろう。ミレニアスは、通信士に何度も呼ばれていることに気づいた。
「司令。観測艇から、謎の大質量体が近辺に存在するとの情報が入ったのですが、いかがいたしましょう」
「…大質量体?そのようなもの、いつから…」
「プロティア出発時には確認されていません。数時間前に時空転移してきたようです」
 ミレニアスは首を傾げた。
「何だか抽象的な報告ね。スクリーンに表示出来ないの?」
 通信士はしばらく観測艇の通信士と会話していたが、やがて首を横に振った。
「不可能です。その質量体は、不可視なのだそうです」
 ますます訳がわからない。目に見えないというその物体は一体何者で、何のためにこんな戦地に存在しているのだろう。
「まさか新手…?」
 ミレニアスが呟くのと、通信士が驚いた声をあげたのは、ほぼ同時だった。
「司令、質量体から熱反応が検出されました!」
 ミレニアスは素早くサーモグラフィー機能付きのカメラを作動させ、スクリーンに投影させた。熱反応を示すぼんやりとした赤い光が、スクリーンの中央で広がっていくのが確認出来る。
「球体ね…これは一体…?」
「熱反応更に上昇。…これは…質量体が可視化する模様です!」
「敵という可能性もあるわ。全艦、砲門をそちらに向けておいて」
 ミレニアスは的確にそう指示すると、スクリーンに見入った。第九艦隊の脆弱な包囲の中で、謎の物質は徐々にその姿を現し始めた。それは一つの惑星のような球状をしていた。しかし、惑星と呼べる程の大きさはなく、表面は頑丈そうな金属で覆われていて、惑星というより要塞という呼び方の方が正しいように思われた。
「何なの、あれは…」
 呆然と目前の球体を眺めていたミレニアスに、通信士がおずおずと話しかける。
「司令、身元不明の通信コードから通信を求められています。回線を開きますか?」
 十中八九、あの球体からのものだろう。ミレニアスが恐る恐る頷く。通信用のスクリーンに映されたのは、片眼鏡をかけた小柄な老人だった。
「我々はシレホサスレンに属する特殊戦闘機関矯正院(ケルセイ)。我々の崇高な使命を果たすため、これより恐怖をもたらす兵器に神の鉄槌を振るわせて頂く」
 厳かなシレホサスレン語を、第九艦隊の全員が正確に理解し終えるには、相当の時間を必要とした。