Gene Over│Episode1蒼き星と少女 07人型兵器

 私の任務は『消去』すること。
 他に何も考えてはいけない。
 他に何も望んではいけない。

 レーザーガンの銃口を向けた先で人工の血液を流す、『元』仲間の蒼白な体を無機質な赤い瞳で見下ろしながら、彼女はいつものように頭の中で繰り返した。
 彼女の目の前にいるのは元々彼女の仲間だった。
 人型戦闘兵器ヒュプノス。
 エルステンの天才科学者チアキ・ルーズフトス博士により開発されたその人型をとった機械は、人類にはない特別な能力を持っていた。並はずれた戦闘能力、索敵能力、防衛能力など様々なタイプのものがいる。
 彼女、エルステン政府備品人型兵器ヒュプノスNo.2女性型フィーノにはそのような特別な能力はほとんどない。少し感情が与えられた程度のものである。しかし、彼女にはある重要な役目が与えられていた。
 ヒュプノスは対人間用兵器であって、開発者にとってもある意味危険な存在であった。
 つまり、『処分』が出来ないのだ。自我を持った彼らを壊そうとすれば、こちらが殺される危険性がある。
 フィーノには、そんな彼等を処分出来るプログラムが与えられた。通称『デリートシステム』。フィーノは、日々出来上がるヒュプノスの失敗作、社会不適合作、人間に反意を抱いたもの―微量にでも持たせた感情のせい―を処分することが存在理由だった。

 私の任務は『処分』すること。
 他に何も感じてはいけない。
 他に何も残してはいけない。
 でも…私は今、どうしてこんなに苦しいのだろう…?


 フィーノの異変に気づいたのは、研究所で共に過ごしていたヒュプノスNo.4女性型エルナートだった。フィーノの数年後に造られた彼女は、特別なレーダーを備えた個体で索敵能力に優れている。メンテナンスのために研究所へ戻って来ているが、普段は宇宙連邦軍の艦隊へ配備されている。
 フィーノは、薄暗い部屋の窓際で外をじっと眺めていた。
 エルナートが室内に入りドアの横の照明スイッチを入れると、パチンと小さな音がして室内が明るくなる。そこで初めて、フィーノが少し驚いた表情で振り返った。その瞳から透明の液体が流れているのを見て、今度はエルナートが驚いた。
「フィーノ…どうしたんだ?」
 見開かれたエルナートの瞳も、フィーノのそれも血のような赤色である。それはヒュプノス全員のはっきりとした身体的特徴であるが、その瞳から『涙』が流れるという事実を、感情の薄いエルナートには理解できなかった。
「わからない、わからないの…エル。でも…何だかとても苦しい。これが悲しいってことなのかな?」
 フィーノの声は震えている。エルナートは首を傾げた。
「知らない。私にはそういう感情はプログラムされていないから。でも、フィーノがそう思うのならきっとそうなのだろう。でも…」
 エルナートはフィーノの人工的な涙に触れた。温かい感触が冷たい彼女の指先に伝わる。
「涙というものを…初めて見た。フィーノは私より旧式なのに、どうして私にはこういうプログラムがないのだろう」
 感情システムは持っている。けれど、後継機であるはずのエルナートはフィーノに比べて感情を表すのが不得意だ。  俯くエルナートの黒く長い髪を、フィーノはそっと撫でた。なぜそうしたのかはわからない。でも、ただそうしたかった。


「フィーノがおかしい?」
 エルナートの突然の発言により、戦闘機格納庫の一角でヒュプノスNo.7男性型ドーランは困惑の表情を見せた。ヒュプノスNo.1男性型フォーティスはエルナートの言葉を反復はしたが、特別驚いた様子もない。
 史上初めて正式なヒュプノスとして実用化されたフォーティスには、ほとんど感情は与えられず、宇宙船の音声認識コンピュータとほとんど変わりはない。
 機体整備の道具を運んでいたドーランが、困った顔をしたと思ったら今度は笑い始めた。彼はその場にいる中で一番感情が豊かな型だった。
「フィーノ?あいつ、いつもぼけっとしてて変じゃないか」
 そう言ってドーランは笑った。エルナートは彼を睨む。
「そういうことではない。あれはフィーノの『性質』であって『変化』ではない。最近のフィーノは『変化』していると言っているんだ」
「具体的にはどう変化しているんだ、エルナート?」
 フォーティスが相変わらず無感動に彼女へ問いかける。
 ドーランのように感情表現が豊富なのも相手にしづらいが、フォーティスのように何を考えているのか全くわからないのも扱いに困るものだと、彼等の中間に位置するエルナートはいつも考える。
「最近、任務から帰ってくると涙を流しているんだ。なぜだか私にはわからない。フィーノは悲しいのだと言っていた。とても、苦しいそうなんだ」
 フォーティスは眉一つ動かさなかったが、その横でドーランが興味深そうに何回も瞬きをした。
「涙だと?そんなプログラムを持つ奴がいるっていうのか?俺はまだ一回もお目にかかってないぜ?旧型のフィーノが…涙を?」
 エルナートは真剣な表情で頷いた。フォーティスは腕を組んで、数秒思考した。
「博士達に話したのか?」
「話そうかとも思ったが…。言わない方がいいのだと思う。もしそれが『不適』と判断されたら、フィーノが壊されるから」
 兵器であるヒュプノス達にも、微量の感情のせいか、仲間意識というものが存在していた。フィーノはエルナートにとって、他の仲間にとって恐ろしくもあるが大切な存在だった。彼女を壊されたくないというのは皆が共通に持つ願いだ。
「そうだよな。このまま放っておいたら、フィーノは人間になれるかもしれない」
 ドーランがあまりに突拍子もないことを言ったのでエルナートは赤い瞳で彼を見た。
「人間に…?」
「そうだろ?完全な感情を持つことが出来れば、充分人間として振る舞える。社会に出て、自由に生きることが出来るんだ。フィーノがあんな『任務』から解放されてそうなれるならいいと、俺思うんだよ」
 ドーランがここまで高度な感情を持ち合わせていたことに、エルナートは驚くと同時に恐ろしくなった。そう言うドーランの方こそ、人間に近いではないか。
 基本的は感情をほぼ持ち、他人の感情について理解が示せる。これこそが人間なのではないか、エルナートにはそう思えた。隣で話を聞いているフォーティスには全く理解出来ないようであったが。


 エルナートの予感は悪い方で的中した。エルナートが部屋に帰ると、フィーノが青白い顔で彼女を見た。
「エル…」
「どうしたんだ?何かあったのか?」
 フィーノは黙って握り締めていた赤い紙切れを差しだした。エルナートはそこに書いてあった文面を読んで硬直した。

 命令書 本日1700 No,7男性型ドーランの処分を行う
       規定の場所に出頭し、任務を全うせよ

 エルナートは読み終わった紙切れを近くの机の上に置いた。
「どうして…どうしてドーランを…?」
 フィーノは放心したように虚空を見つめ、そう言った。
 エルナートには心当たりがある。あの会話がいけなかったのだ。
 彼のあの発言は、他の誰かに聞かれていたのだ。それを、博士達に報告された。
 もしかしたらフォーティスかもしれない。あの冷静な判断力で、そう判断したのかもしれない。でも、そもそもあの話を持ち出した自分が悪いのだと、エルナートは自分を呪った。
「フィーノ…ごめん…」
 エルナートの小さな呟きが、フィーノに聞こえていたのかどうかは誰にもわからない。


「それじゃあ、行って来るね、エルナート」
 フィーノはそう言ってドアをそっと閉めた。エルナートは何か言いたそうな顔でこちらを見ていたが、フィーノは聞くことが辛かった。決心が鈍ってしまう気がした。
 彼女の右手にはいつものように小型のレーザーガンが握られていた。そしていつものように、それを仲間の体に打ち込まなくてはならないのだ。
 でも、この苦しみは今日で終わり。
 フィーノは自分の偽りの鼓動が徐々に早くなるのを感じていた。

 いつもの暗い部屋に入ると、会いたくない客が先に彼女を待っていた。
「よお、フィーノ。お勤めご苦労さん」
 これから自分を壊す相手への言葉であろうか。ドーランはいつもと変わらぬ笑顔をフィーノへ向けた。彼女は淋しそうに俯いた。
「出来れば、あなたにはここへ入って欲しくなかったわ…」
 そう言っていつものようにレーザーガンを整備し始める。ドーランの座らされている椅子には、逃亡防止のための電子ロープが張られている。彼は妙に穏やかな様子で、フィーノの手元を見ていた。準備の終わった彼女はゆっくりとドーランに銃口を向けた。
「なるべく、一発で終わりにしてくれ。一応痛覚があるんでな」
 ドーランがおどけて言うと、フィーノは彼の目を見て、悲しそうに笑った。
「大丈夫、そんな心配いらないわ…」
 そう言いながら、フィーノはゆっくりと銃口をドーランから逸らした。
 呆然と見つめる彼の目の前で、彼女は動かしたレーザーガンの銃口を、最後に自分の胸の前で止めた。
「私には、痛覚は与えられてないから…大丈夫…」
 ドーランは驚いて身を乗り出した。電子ロープが一層彼を締め付ける。
「なっ…何やってんだよ、フィーノ!」
 フィーノの顔を見たドーランは驚きで一瞬声を失った。
 彼女の瞳から、液体が流れていた。それはエルナートの言っていた、今までどのヒュプノスも流すことのなかった涙だった。
 静かに泣きながら、フィーノは最後の言葉をドーランに投げかけた。
「最初からこうすれば良かったんだよね。私がいなければ、みんな生きていられるものね…。さようなら、ごめんね、ドーラン…」
 フィーノは引き金を引いた。青いレーザーが彼女の胸に突き刺さる。ドーランの目の前で、彼女は床に倒れ込んだ。
 瞳と同じ赤い人工血液が床に染み込む。フィーノは数秒痙攣したように指先を動かしていたが、やがてその動きを完全に止めた。
 ドーランは下を向いて、唇を噛み締めた。
「どうしてだよ…どうして…。それが、人間としての答えなのかよ…っ」
 このような状況下でも、ドーランは涙を流すことが出来ずにいた。一体どうすれば涙を流せるのだろう。
 涙を流せるようになったら、自分もフィーノのように『狂う』のだろうか。
 不意に、処刑場のドアが開いた。研究者が驚いた表情で立ち尽くす。
「No,2?これはどういうことだ?No,7、どうしてお前が生きている?」
 そう言いながらフィーノに近付いた彼は彼女を見下ろして言った。
「こいつがいなくなったら、ヒュプノスの処理が出来なくなるな。全く…役に立たんな」
 その言葉を、ドーランは聞いてしまった。聞くべきではなかった。この時の彼は理解不能な感情で完全に支配されていた。
「役に立たない、だと…それを求めたのはお前達だ…」
 ドーランは立ち上がろうとして、電子ロープに引っかかった。彼は全身の力を込めて、それを切ろうとした。最終的にそれは数秒後達成されたものの、彼はロープの力に耐えきれなかった右腕と左足をもぎ取られた。痛覚があるので、酷く痛んだが、この時はそれより感情の強さが勝った。
 体の一部を失いながらも歩み寄る彼を見て、研究者は恐怖で身を固くした。
「な、何をする…No,7!やめろ!」
 彼の声は彼の生成物には届かなかった。ドーランは残された左手で研究者の首を思いきり締め上げた。
「ひ、ひいぃ…っ、ぐがああああっ!!」
 理性を忘れた汚い叫び声が室内を満たす。それでもドーランは手の力を緩めなかった。それどころか、更に力を込め、研究者の首は棒のように細くなる。青い顔が土色に変色していく。口から吐き出された泡がドーランの左手を濡らす。それも全く気にならなかった。
 ついに彼の手は、研究者の首と胴体を完全に断ち切っていた。噴き出した本物の血液が彼の顔から全身に降りかかり、分断された首はフィーノの横へ乱暴に投げ出された。
「ちきしょう…ちきしょう…!」
 ドーランはその場に崩れ落ちた。怒りを発散させた彼の人工の心は満たされなかった。
 フィーノを失ったことの怒りは他人の死では報われないと感じた。そして、もぎ取れた手足から人工血液と共に生気も抜けていくようであった。
「ごめん、な……フィーノ………ごめんな…」
 左腕を、横に倒れて二度と動かないフィーノの頬に伸ばしたが、その途中でドーランは力尽きた。


 惑星の周りを取り囲む人工衛星群。その衛星の一つにシャトルが近づく。
 真空の宇宙空間に港があるはずはなく、シャトルが近づくと、球状の衛星の一部が落とし穴のような入り口を作り出し、シャトルを招き入れた。
 シャトルが衛星に吸い込まれるように入っていくのを、ドーランはその内部から眺めていた。
 自分自身が製造された懐かしいこの場所だが、同時に忌まわしい記憶も思い出される。
 自分を壊すはずだったのに、壊さなかった彼女のことを。
 帰ってきたかったような気もするし、二度と帰りたくなかった気もする。
 エルナートも複雑な気持ちを胸に抱きつつ、窓の外を眺めるドーランの横顔を見ていた。
 エルステン宙域第七研究所。
 ここは全てのヒュプノスが生み出された場所であった。

「まったく、新しい仲間が出来たからって、どうしてわざわざ迎えに来させるんだよ。突然ダースジアへ配備するってのも、どうかと思うしな…」
 ドーランは階段を下りながらぼやいた。エルナートも頷く。
 ダースジアとは宇宙連邦軍実動戦闘第二艦隊の主要な戦艦であり、戦闘では前線に立つ艦である。人間のことも社会のことも知らない、経験不足のヒュプノスが配備されるべき場所だとは到底思えなかった。
 二体が案内されたのは、第七研究所の現所長で、ヒュプノス開発局長でもあるコアルティンス・フォルシモ博士のオフィスだった。白い壁で囲まれた部屋に、デスクと来客用のソファだけが置かれているという殺風景な部屋である。
 二体が入室すると、『博士』と呼ぶにはあまりに若い、まだあどけなさの残る金髪の青年がデスクの上のコンピュータから顔を上げ、立ち上がって迎えた。この研究所でヒュプノスにこのような礼儀を見せるのは彼だけであり、誰もが不思議に思い、彼の師にあたるルーズフトス博士に作られた当のヒュプノス達も新しい開発局長に当惑の表情を見せるのが常であった。
「よく来てくれたね、ドーラン、エルナート」
 コアルティンスはヒュプノス達を実用番号ではなく個体認識名で呼ぶ。こんなことをするのも、ここの研究者では彼だけであった。
 彼は白衣を翻し、横のソファをすすめたが、二体はそれを断った。
「それでは早速本題に入るけれど、新しく開発したヒュプノスを君達の仲間として共にダースジアに乗せてやって欲しくて、君たちを呼んだんだ。戦闘能力についてはシミュレーション上の問題はない。経験は足りないかもしれないけど、実戦を積んでいく中で徐々に補えるはずだ」
 ドーランは頷いた。言われた通り、それを一番心配していたので少しだけ安心する。彼女を連れてくるから、と言ってコアルティンスは部屋を出ていった。振り返り様に柔らかい金髪が揺れ、左目の下にある泣きぼくろが覗いた。
 ドーランはエルナートを振り返る。
「彼女、だってさ。女性型らしいな。ダースジアに行ったら、お前と同じ部屋になるかもな」
「別に、誰と同室だって構わない」
 ぶっきらぼうにそう言って、エルナートは一瞬脳裏に浮かんだ『彼女』を打ち消した。
 ドアが開き、博士が戻ってくる。二人は、彼が誰も連れてきていないように見え、不審に思ったが、その理由はすぐにわかった。
「この子だよ。さあ、仲間に挨拶しなさい」
 博士がそう言ってしゃがみ込み、手を引く。小さな足取りで二体の前に歩み出たのは、十二、三歳ほどの子供の姿。しかし、その顔を見たドーランとエルナートは凍り付いた。
 その顔は、彼等が昔失った仲間、フィーノに酷似していた。彼女とまるきり同じ黄緑色の髪が揺れて、小さなヒュプノスは二体に会釈する。顔を上げると、意志の強そうな赤い瞳が光っていた。
「ヒュプノスNo.51女性型フェノン。よろしく」
 ドーランはしばらく彼女を見たまま何も言えなかった。エルナートが博士を睨む。
「博士、これはフィーノではないのですか?」
 突然の直接的な質問に博士は一瞬当惑したが、やがて少し淋しそうな顔をして、それに答えた。
「フィーノについては記録で見たよ、可哀相に。自己破壊するヒュプノスなんて未だ彼女しか例がない」
「質問に答えてください」
 エルナートが厳しい口調で言う。開発局長にこのような口をきいて他人から咎められるかもしれない、とは微塵も考えなかった。考える暇がなかった。
「この子、フェノンはフィーノの再生型(リサイクル)だ。フィーノよりも姿は幼いけど、使った部品はほとんどが当時、無傷で残った彼女のものだよ」
 博士が答える。エルナートは彼から視線を逸らし、自分よりも遙かに小さく頼りなさげな個体を見下ろした。
「そんなことはどうでもいい…」
 今まで黙っていたドーランが不意に口を開く。一人と一体の視線が彼に集中する。
 彼はフェノンをしっかりと見据えていた。
「お前に、フィーノの記憶はあるのか?」
 エルナートが驚いてフェノンを見つめる。射るような仲間達の赤い瞳に、見つめられてもフェノンは動じることなく、しっかりと首を横に振った。
「いいえ、あたしはNo.2フィーノの記憶を持っていない。彼女の能力も持っていない」
 次に問われることを先読みしていたかのように、すらすらとそう答えられ、ドーランはそれ以上何も言えなかった。それが、フィーノの能力が受け継がれているのかという点が、彼の最も気にしていた所であった。それをあっさりと否定され、彼は安心の裏に少しの寂しさを感じていた。
 コアルティンスはフェノンの頭を一度だけ優しく撫でると、立ち上がった。二体の前へ押し出すようにフェノンの背中を押す。
「二人共、フェノンのことを頼んだよ」
 二体は敬礼でそれに答えた。
「了解」
 敬礼を解いたドーランに、フェノンが歩み寄り、小さな手を差し出した。握手を求めているのかと思ったが、やがて彼女の意図に気づくと、ドーランは苦笑して彼女の手を取った。彼女は満足そうに頷くと、きゅっとその手を握り返した。
 仲間に手を引かれ部屋を出ていったフェノンの背中を、子供を見送る父親のように、コアルティンスは穏やかな表情で眺めていた。
「頼んだよ…」
 小さな呟きは、誰にも聞かれることはなかった。


 特殊戦闘艦ダースジアは、第二艦隊の中で唯一人型兵器ヒュプノスが搭載されている艦である。他の艦隊やエルステン国内の私兵団で使われている個体も数体存在するが、今までに製造された五十一体のヒュプノスの中で、第七研究所を出て活動している個体は、その半分にも満たない。
 ヒュプノス開発の第一人者、チアキ・ルーズフトス博士は鬼才の持ち主であり、現在稼動しているほとんどが彼女の創り出したものたちであるのだが、八年前に彼女が亡くなって以来、開発技術は著しく衰えた。
 後任のコアルティンス博士も秀才ではあるが、チアキほどの能力はなく、開発局長となって二年、漸く独自の製法でフェノンを創り出すことに成功した。それでも、十九歳でそのようなものを創ってしまったのだから、彼の才能は、科学者であれば誰もが認めるものである。
 ダースジアの廊下を、ドーラン、そしてエルナートに挟まれてフェノンは歩いていた。
 物珍しそうにしきりに辺りを見回す。彼女の知っている世界は、今のところ研究所の生体維持カプセルだけであった。新しい環境に、フェノンは希望を抱いていた。まるで人間のように。
「本当によく似ている…」
 不意にエルナートが立ち止まり、フェノンを見た。三体共等しく赤い瞳を持っているはずなのに、エルナートのそれは人を怯えさせるような、力強い輝きを放っている。
「もう七年も経っているんだ。忘れろ、エル」
 ドーランは、立ち止まっているエルナートを無視して歩きながらぶっきらぼうに言い捨てた。フェノンは二体の間に挟まれて困ったように立ちすくみ、心配そうにエルナートを見つめている。
「でも…」
 過去を断ち切れないでいるエルナートは下を向いて唇を噛んだ。フェノンを見ているとフィーノを思い出し、何だか辛い。
「こいつと一緒にいるのが嫌なら来なくていい。持ち場に戻っていろ。…行くぞ、フェノン」
「…うん…」
 ドーランがエルナートとの距離をどんどん広げていってしまうので、フェノンは未練がましそうにエルナートを見ながらも、彼に駆けつけた。
 エルナートはそんな二体をしばらく見送っていたが、結局逆方向に歩を進め始めた。

「連れてきました」
 ドーランによって案内された部屋は、たくさんの機械が稼働し人間たちがいた。それぞれが難しい顔で機械と向き合っている。ダースジアの艦橋の様子を、フェノンは異国を初めて訪ねた少女のように眺め遣った。
「新しい開発局長には、少女趣味でもあるのか?」
 粘つくような低い声がして、ゆっくりとした足音と共に誰かが近づいてくる。フェノンがその方向へ視線を向けると、宇宙連邦軍の制服を纏った長身の男が歩いてくるのが見えた。
 男が放った言葉の意味がわからず、フェノンがドーランを見上げると、ドーランは冷たい瞳で男を見ていた。
「ヒュプノスNo.51女性型フェノンです。艦長、乗船許可を」
 やや棘のある声で紹介し、ドーランはフェノンを彼の前に出した。フェノンはどうしていいのかわからず、とりあえず会釈をする。
 それをつまらなそうに一瞥し、ダースジア艦長ログフィスト・リオネル・ヘラー少将はすぐに彼女から目を逸らした。
「まあいい、乗船を許可する。役に立つかどうかはわからんがな」
 最後の部分を、フェノンによく聞こえるように言うと、ログフィストは二人から離れていった。ドーランは彼の後姿を見届けることなく、フェノンの手を引いて艦橋を後にした。