キッチンから、母が細やかに包丁を動かす音が聞こえる。
廊下の壁に備え付けられたテレビ電話の画面には、数ヶ月ぶりに見る兄の顔が映っている。
「…そういうわけだから、家に帰れるのはまだ先になりそうだよ」
兄がそう言って寂しそうに笑う。元気そうに振舞ってはいるけれど、長期間の任務で疲れているのだろうと、妹のセフィーリュカはすぐに見抜いてしまった。テレビ電話の画面が不意にぶれる。ゼファーが家に電話してきているのは、プロティアから何光年も離れた遠い宇宙からなのだ。
「あんまり無理しないでね、兄さん」
「ありがとう。セフィーリュカも勉強頑張って」
ゼファーはそう言うと、電話を切った。
セフィーリュカは真っ暗になってしまったテレビ電話の前からしばらく動かなかった。横を振り向くと玄関の扉が目につく。仕事に出てしまった姉はしばらくここへ帰って来てくれない。そして、兄も。
ゼファーの率いる第五艦隊が、カナドーリア会戦で傷ついた第七艦隊の救助を請け負ったため、予定より帰還が遅くなるという連絡だった。
第五艦隊旗艦ロードレッド内の緊急通信室を、きょろきょろと周囲を見渡しながら出たところで、ゼファーは突然後ろから何者かに肩を掴まれた。
「うわあっ!」
驚いて振り向くと、ゼファーと同年代の赤毛の青年が立っていた。白を基調にしたコートのような軍服を羽織っているゼファーと違い、真っ黒で、体に密着したパイロットスーツの上に機械整備士の制服を重ねている。
「なんだ、リゼーシュか…」
相手の顔を見てほっと胸をなでおろしたゼファーを、リゼーシュ・ルッコーラ少尉は睨みつけた。
「なんだ、はないだろ!せっかく呼びに来てやったのに。副司令が捜してたぜ、ゼファー」
「副司令が?」
リゼーシュは呆れたように両手を広げて溜め息をついた。艦隊司令を名前で呼び捨てるこの青年、実はゼファーにとって軍学校時代からの個人的な友人なのである。
「まったく、作戦行動の途中で行方不明になる司令がいるかっつーの。ほら、さっさと艦橋に戻れよ。こちとら、怖―い艦長の下で必死に頑張ってるんだからな」
後半はほとんど愚痴である。リゼーシュは今回の哨戒に入る前に、新型の特別偵察艦の航宙士に任命された。元々特殊戦闘員志望で、砲撃手も兼任できる貴重な存在だったため、定員が少ないその特別偵察艦に配属されたのだ。年齢を考えればある意味では出世である。しかし、その特別偵察艦の艦長が、第五艦隊の中でも強面で部下に厳しいと評判のチアースリア・アロラナール准将であるということが、リゼーシュの唯一の悩みであった。そして何よりこの人事異動を考えたのが、他でもない、目の前にいるゼファーなのだから、愚痴らずにはいられない。面と向かって自らが考えた人事に反抗してくる友人にして部下に、ゼファーはやや呆れた顔で肩をすくめた。
「准将は別に怖い人じゃないよ。リゼーシュが不真面目だから怒られるだけだろ?」
友人を悪く言うのは良くないかもしれないが、お世辞にも『良い子』ではないタイプなのをゼファーは知っている。そんな彼を自分は何度もフォローした経験があるし、だが逆に彼の明るさや大胆さに助けられたことだって何度もある。
「べ、別に怒られてなんかないぞ!ただ、ちょこっと失敗して睨まれただけだ!」
それを怒られたというのではないのだろうか。チアースリアがリゼーシュを睨んでいる場面を想像して、ゼファーは心の中で苦笑した。チアースリアは、軍人を多く輩出している名門アロラナール家の出であり、軍人以外の職業に就いているのが想像できないほど、職業軍人的な雰囲気がある。他人より頭一つ分背が高く、他人と話す時、自然と見下ろす形になるので睨んでいるように見えなくもない。見た目だけでいうと、確かに相当怖そうである。
そんなチアースリアであるが、どうやら副司令のシェーラゼーヌとは旧知の仲であるらしい。二人が和やかに会話している場面を、ゼファーは何度か見たことがある。シェーラゼーヌも女性にしては背が高い方なので、彼と二人でいてもあまり身長差に違和感はない。恋人、というわけではなさそうだが、シェーラゼーヌがチアースリアを信頼しているようであることはわかる。二人がどのような経緯で知り合ったのかということは、第五艦隊で最大の謎だった。特に詮索しようとも思わないが。
「まあいいや、ありがとうリゼーシュ。今度何か奢るから」
ゼファーは片手を挙げて友人の元を離れた。艦橋に向かって早足で歩き出す。おう!という元気な返事が、ロードレッドの廊下に響いた。
艦橋に入ると、艦長席に腰かけて航宙状況の確認をしていたシェーラゼーヌがゼファーに気付いて立ち上がった。いつものように優しい微笑みをたたえているので、不在だった司令に怒っているというわけではないようだ。
「ご家族と、連絡がつきました?」
歩み寄って来た彼女から小声で尋ねられ、ゼファーは照れくさそうに笑って頷いた。シェーラゼーヌには、ゼファーの行動がお見通しだった訳である。本来、緊急通信室は文字通り緊急時以外の使用が許可されていない。無断で、しかも私事で利用したゼファーは、ロードレッド艦長である彼女から咎められることを覚悟していたのだが、シェーラゼーヌは事情を知っても、特別意に介さなかった。
「緊急時にきちんと作動するかどうか、誰かが確かめておく必要がありますからね」
優秀な副官は、そう言って自らゼファーの共犯者になったのだった。
「リゼーシュから、副司令が捜してるって言われたんだけど」
「はい。まもなく、先を航行中の偵察艦が、第七艦隊から救援信号が発せられたポイントに到着しますので、ご報告をと思いまして」
シェーラゼーヌは窓から宇宙を見据えた。ゼファーもつられて彼女の真似をする。別に第七艦隊がそこにいるわけではないが。
「副司令も見た?カナドーリアの映像」
「え、ええ…」
尋ねられたシェーラゼーヌは、やや歯切れの悪い返事をして俯いた。その理由をすぐに察したゼファーは慌てて謝る。
「ご、ごめん…!そうだったね…」
彼女はカナドーリアの生まれ―正確には製造されたわけだが―なのだ。彼女の出生の秘密は、ゼファーがこの艦隊の司令に任命された時に司令長官から聞かされて知っている。なかなか複雑ではあるが、ゼファーにとって目の前の女性は普通の人間でしかなかった。それでいいのだと思う。
「…あの兵器、一体何なのでしょうね?」
脱線しかけた辛い話題を、彼女は自分から引き戻した。
「わからない…。第七艦隊にはあのフォルシモ研究員もいたはずだ。あの人に対応できない兵器なんて、この世にないと思っていたけれど」
「確かにそうですね。彼女は無事なのでしょうか…?」
シェーラゼーヌが目を伏せる。ゼファーにわかるわけもない。殺しても死なないような人物ではあるが。
救助に向かえば嫌でもわかるだろう。生き残った者も、いなくなってしまった者も。ゼファーはもう一度宇宙へ目を向けた。
「そうなの。それじゃあ、しばらくはセフィーリュカと二人きりね」
自分で作ったサラダを口に運びながら、シオーダエイルはセフィーリュカに言った。パンをかじっていたセフィーリュカは頷く。
「こんな時に、姉さん仕事できるのかな?」
「そうねえ、まずダスローで補給してからホワルまで行くって言っていたけど…まだダスローにも着いていないでしょうね」
案外冷静に、母は事実を告げた。まだダスローに着いていないということは、リフィーシュアは宇宙にいながらカナドーリア消滅の報を知ったのだろうか。
独りぼっちの姉が怖くて泣いてはいないかと、セフィーリュカは心配になった。
妹の心配は当たっていた。姉は泣いていた。
でも、先日起きたらしい惑星消滅事件が怖かったわけではない。もっと現実的な危険が、彼女を脅かしていたからである。
事の発端は一時間半前、第五宙域を抜け、第六宙域に入って真っ直ぐダスローを目指していた時、レーダーが前方に何やら不審なものを発見した。信じられないほど高速で一隻の宇宙船が飛んできたのである。
「な、何なのあれ?正式な航路を取ってないじゃないの?」
リフィーシュアが思わず独り言を言った時には既に、宇宙船はスクリーンに拡大して映すと船籍や製造番号が分かるほどに接近していた。彼女は画面をじっと睨んだ。所々から煙のような物が出ているのが気になる。
「アスラ」
リフィーシュアは自分の船のコンピュータシステムの名を呼んだ。
「認識しました」
無機質な女性の声が返ってくる。
「前方の宇宙船の身元はわかる?」
「データ検索中…しばらくお待ちください」
リフィーシュアが尋ねるとアスラが返事をし、コンピュータの作動する音が聞こえてくる。五秒ほどで、アスラが答えを出した。
「検索結果が出ました。船籍はダスロー。製造番号46873629。最小規模軍用宇宙船ジスタです」
リフィーシュアは大人しくアスラの説明を聞き、頷いた。
「ふーん、軍用船か……って、軍用船!?」
「はい」
リフィーシュアは目の前のキーボードに思いきり手を叩き付けた。アスラの冷静な返事が返ってくる。
「ちょっと待ってよ、どうして軍の船があんな所にいるのよ!?」
リフィーシュアは一人で慌てていた。狭い操縦席から勢いよく立ち上がり、天井に頭をぶつける。
「痛い!…あ〜もう!」
彼女が一人でばたばたとしている時、突然コンピュータがピピピ…と音を発した。
「ジスタより通信を求められています。回線を開きますか?」
当然の話だがアスラの口調は淡々としていた。しかしリフィーシュアはなんだか腹が立ってくる。
「ちょっとアスラ!少しは私の心配してくれるとかさぁ…っ!」
リフィーシュアが宙に向かって不当なことを叫んでいる間も、通信を求める音は鳴り止まない。彼女は頭を掻いて、観念したように脱力した。
「わかったわよ、五月蠅いから早く通信開いて」
「了解しました」
アスラが答えると、スクリーンに一人の男が映し出された。何やら必死の形相でリフィーを見ている。リフィーは先程ぶつけた頭を撫で、乱れてしまった長い髪の毛を整えながら、少し緊張した面もちで男を見た。
「こちらは旅行運送組合アウゴメア所属民間宇宙客船アスラ。はっきり言わせてもらいますけど、あなたの取っている航路は正式なものではないわ。他の人の迷惑になるから、早々に航路を変更した方がいいわよ。それとも何?こんな所で戦闘中、なんて非常識なこと言わないでしょうね?」
頭をぶつけたことに余程腹が立ったのか、リフィーシュアは男に話す余裕を与えることなく一気に喋った。リフィーシュアよりも少し年上らしいたくましい体つきの男は、深青色の瞳を何度も瞬きさせて、リフィーシュアの予想に反してはっきりと頷いた。
「その通り。現在このジスタは、当宙域に侵入した銀河同盟軍との小規模な戦闘状態にある。非常に危険だ。即刻退避するよう勧める」
男のプロティア語は片言だった。ダスロー船籍の船なので、恐らくダスロー人なのだろう。彼の口調は丁寧だったが、その内容は穏やかさとはかけ離れていた。リフィーシュアは彼の言葉に青ざめた。ジスタの船体から出ている煙を見る。
「あ、あなたの船も危なそうじゃないの!まだ敵は来てないみたいだから、早く逃げなさいよ!」
リフィーシュアは慌てて軍人に叫ぶ。彼は彼女の剣幕に押され、動揺しているようであった。
「い、いや、この船は既に敵のコンピュータに記録されているから、逃げ切れたとしても、すぐに見つかって…」
「それじゃ無駄死にじゃないの!ちょっと待ってて!」
リフィーシュアはそう叫ぶと、一方的に通信を切った。
「アスラ!」
「認識しました」
「ジスタに急接近するわ!緊急用連絡ハッチのロックを外して!」
「了解しました。緊急用連絡ハッチ、ロック解除」
アスラの落ち着いた声が告げた時には、アスラの楕円形の船体はジェット機のように鋭利な形をしたジスタの横に再接近していた。そこでもう一度リフィーシュアが通信回線を開く。
「今そっちの出口に緊急用連絡通路をつけたわ!早くこっちに乗り移って!」
「な、そんな…ジスタを見捨てろって言うのか?」
「人間を見捨てるよりよっぽどマシよ!早く!」
リフィーシュアが叫ぶと、男は少し歯を食いしばって黙っていたが、立ち上がった。通信が自動的に切れる。
ジスタも相当狭い船だったらしい。男はすぐに連絡通路を通ってアスラの中に入ってきた。それを横目で確認し、リフィーシュアは操縦桿を握り締める。
「しっかり捕まってて!」
アスラの船体はあっという間にジスタから離れた。ぼろぼろに壊れたジスタは、宇宙の塵の一つになっていくのだろう。傷ついたアスラのスクリーンから愛機を見ながら、男はがっくりと肩を落とした。
「俺の半年分の給料が…」
男が発した言葉はプロティア語ではなかったので、リフィーシュアには意味がわからなかった。
「でも、おかげで助かった。えーと…?」
「あ、私、リフィーシュア・アーベルンってい…」
その時だった。
ドオォオンッ
突如、衝撃がアスラを襲った。ビーッビーッという耳障りな警報が狭い船内に響く。
「きゃああっ!」
後ろを向いて話の途中だったリフィーシュアは突然のことに身構えることが出来ず、揺れで操縦席から転げ落ちた。
「危ない!」
自らも揺れに驚き、それに翻弄されながら男は席を立ち、床へ倒れかかった彼女を受け止めた。揺れと警報はまだ続いている。
「くそ…民間船も襲うのか!なんて非常識な奴らだ!」
男は舌打ちすると、投げ出されたリフィーシュアに代わって操縦席に座った。彼女は腰をさすりながら、隣の助手席に座る。
その時またしても船が激しく揺れた。
「きゃっ!アスラ、一体何が起こってるの!?」
リフィーシュアは自分の船に向かって叫ぶ。アスラは状況把握にしばらく時間を要し、数瞬遅れて返事をした。
「現在、この船は何者かの攻撃を受けています。対物防御シールド出力七十%で対応していますが、船体を貫かれるのは時間の問題のようです。シールド出力を八十五%に上昇させることを要求します」
アスラの冷静な声がけたたましい警報に重なる。
「何でもいいわ!シールド出力八十五%に上昇!」
「了解しました」
未だ断続している揺れに体を翻弄されながら、リフィーシュアは助手席にしがみついた。もしかしたら、もう帰れないかもしれない。リフィーシュアは家族の顔を思い出していた。目に涙が浮かぶ。
「コンピュータ、シールドを保ちつつ、周辺の障害物をスクリーンに投影してくれ。自力で戦場を離脱する!」
「了解しました」
操縦席の男がアスラに指示を飛ばす。
「航宙に影響する可能性のあるデブリ等のスクリーニングを完了しました」
アスラの声がして、男の座っている操縦席前のスクリーンにこの宙域の図と、障害物を示す表示が示される。彼はそれを見ながら、ぐっと操縦桿を握り締めた。
「よし、行くぞ!」
「わ、わかったわ!」
リフィーシュアが少し緊張を含んだ声で答えた瞬間、アスラは最大出力で前進し出した。攻撃を受けた時とはまた違う衝撃が船内に伝わって、リフィーシュアは思わず叫び声をあげた。
しかしアスラが最大出力を出したのはほんの数分で、攻撃の的から何とか外れることが出来た時、男は速度をゆるめた。リフィーシュアは急に脱力感に襲われて溜め息をついた。
「もう…来ない?」
男がレーダーを覗き込む。そして首を横に振ると、リフィーシュアの方を見た。
「駄目だ…ぎりぎり攻撃からずれただけで、完全に囲まれてる」
男が腕を組み、少し考えるような動作をした。数秒後、答えが出たらしい。
「この宙域を出よう。どこでもいい、哨戒中の宇宙連邦軍艦隊でもあれば救助してもらえる」
「ちょっと、待ってよ!勝手なこと言わないで!これは私の船なのよ!」
リフィーシュアが思い切った男の発言に抗議する。仕事のためにせっかく第六宙域まで来たというのに、またこの宙域を出なければならないなど馬鹿馬鹿しい。時空転移のためにエネルギーを使ってしまったら、補給のために立ち寄る予定のダスローまですら辿り着けない事態になるだろう。
二人が言い争っていると、突然警報が響き渡った。
「後方より、熱エネルギー反応確認。五十秒後に接触します。繰り返します…」
アスラの言葉に、男が素早く反応した。
「迷っている暇はない。コンピュータ、時空転移だ。現宙域緊急離脱!」
「了解しました。時空砲展開。宙域離脱まで、あと三十秒」
アスラの言葉と共に船内のコンピュータが忙しく稼動し始める。アスラの無機質なカウントダウンと共に船内の緊張が高まる。
「三、ニ、一、…時空転移を実行します」
次の瞬間、リフィーシュアは体に重みを感じた。もちろんこれが初めての体験ではなかったが、彼女はこの感覚がどうも好きになれなかった。巨大な宇宙船なら、時空転移の衝撃というものは内部の人間にまで伝わることはない。ただ、虹の中を通るような色彩の感覚があるだけである。しかし、アスラのような小型船ではそうはいかず、体が慣性の法則に従おうとするので、内臓がねじれるような、酔ったような感覚が内部の生物を襲うのである。宇宙船に慣れていない者の中には、その影響で体調を崩す者がいるほどである。
ぐにゃりと揺らめいていた空間がきちんとした像を結ぶ。そこには既に敵の姿はなかった。
「時空転移を完了しました」
アスラが報告する。リフィーシュアは少し気持ち悪くなって、胃の辺りを押さえながら、溜め息をついた。
「アスラ、ここはどこなの?」
「五七九、第五宙域です」
アスラの声を聞いて、リフィーシュアは更に溜め息をついた。
「戻ってきちゃったじゃない…」
スクリーンの奥の方に、小さいが青く輝く惑星が見える。まぎれもなく、リフィーシュアが出発したプロティアだった。
「艦長、救難信号です」
第五艦隊が第七艦隊の救助に向かってプロティア宙域を進行している途中、旗艦ロードレッドの主任通信士、エリルドース・カナティアがシェーラゼーヌにそう報告した。
「第七艦隊ではないのですか?」
シェーラゼーヌは首を傾げた。エリルドースが首を横に振る。
「いえ、違います。民間船です」
「故障してしまったのかしら…?どうしましょう、司令?」
民間のレスキュー業者でも近くにいればそちらへ任せて良いのだろうが、せっかく救援信号を受け取ったのに放置しておくのは良心が痛む。それに信号が発せられている場所は、通常民間船が航行するルートから逸れていることも気になった。判断に迷ったシェーラゼーヌは後ろのゼファーを振り返る。彼も彼女と同じように考えていたらしく、腕組みをしてしばらく悩んでいたが、やがてエリルドースに指示を出した。
「ザリオットを救助に向かわせよう。アロラナール准将に連絡を」
特別偵察艦ザリオットは先述の通り新しい船であり、今回の哨戒任務において初めて搭載された艦である。特に役目がないままロードレッドの格納庫で待機させてあるのを、ゼファーは思い出したのであった。エリルドースは頷くと、艦内放送のスイッチを入れた。
「こちら艦橋。アロラナール准将以下ザリオットクルーに告ぐ。ポイント五七九から民間船の救援信号を入電。至急同ポイントに向かい、民間船を救助せよ。繰り返す…」
救援信号はどうやら近くの船に届いたようだ。すぐに了解を表す通信文が送られてきた。しかし、ほっとして通信文を読んでいたリフィーシュアが不意に動きを止める。
「だ、第五艦隊…」
操縦席の男が横から通信文を覗き込む。
「何か不都合でも?」
声をかけられ、リフィーシュアははっと我に返ったが、観念したように小声で答える。
「弟がね…あの艦隊にいるのよ。うう…仕事中なのに時空転移で戻ってきちゃったなんて言ったら、絶対笑われる…」
「弟…アーベルン…?ああ、そうか…!」
助手席で膝を抱いて本気で悲しがっているリフィーシュアの横で男が妙に納得したような表情で一人頷いた。
「な、何?」
気味悪く感じたリフィーシュアが訝しげに男を見ると、彼は突然彼女の手を取った。
「きゃあっ!?」
「もしかして、アーベルン大将のお嬢さんでは!?」
よく知らぬ男に突然手を握られ、更に今は亡き父の名前を出されて、リフィーシュアはすっかり混乱した。男は真剣に彼女を見つめている。数秒後、漸く頭の中で情報をまとめたリフィーシュアが頷いた。
「確かに…父は宇宙連邦軍人で大将だったけど…それが何?」
リフィーシュアの答えに、男の目が輝いた。
「やっぱり…!俺、アーベルン大将に憧れて宇宙連邦軍に入ったんだ」
「そ、そうなの…?」
父が他人から憧れを抱かれる程の人物であったものかどうか、リフィーシュアにはよくわからなかった。
誰にでも優しかった父。妹セフィーリュカと同じ、きれいな空色の髪と瞳を持ち、空のように自由で寛大だった父。
八年前、たくさんの人の命を守るために銀河同盟軍と戦い、犠牲になったらしい父。
あの日、一人で家に帰ってきてリフィーシュアたちを強く抱きしめて泣いた母の姿は、一生忘れない。
「圧倒的な戦力差の中でも決して諦めることなく指揮をとり、部下を守るために戦い抜いた彼は、宇宙連邦軍の中では英雄なんだ」
男が自分のことのように誇らしげにそう語ることが、リフィーシュアにはとても腹立たしく、耐えられなかった。
英雄。集団葬儀の時、確かにそんな言葉を耳にしたかもしれない。でも、リフィーシュアには父がそれであるなどと、到底信じられなかった。
「俺も、大将のような立派な軍人になりたいと思って…」
「ふざけないで!」
リフィーシュアは、男の手を振り払い叫んだ。唇をかみ締めて男を睨みつける。
「父が英雄?ええ、確かにそうかもね。父はたくさんの人々を救ったわ!それは確かに私たちの誇りよ!でも…でもね、私たちの…母の心を救ってはくれなかった!私は父に、家族を守って欲しかった!たとえどんなに他人が死んだとしても、ずっと私たちを愛していて欲しかったのよ!」
美しいエメラルド色をした両目から涙が零れ落ちる。嘘いつわりのない、本音だった。
父が戦死した時、たくさんの人が誉めてくれた。父を称えてくれた。
でも、そんな言葉は、リフィーシュアにとっては嬉しくも何ともなかった。逆に、ひどく心を抉るような心地すらしていた。
両手で顔を覆い泣くリフィーシュアの肩を、男がそっと抱く。先程は手を振り払ったが、今度は抵抗しなかった。
「…すまない…。君の気持ちを考えていなかった…」
男の大きな手で優しく頭を撫でられ、リフィーシュアは彼の腕の中で泣き続けた。アスラの狭い船内に、彼女の嗚咽が響いていた。
泣き止んだリフィーシュアは、顔を赤らめて助手席に座り直した。操縦席の男に背を向ける。
不覚だ。見知らぬ男の腕の中で泣くなんて。火照る顔は、泣いた所為だけではないように思う。
「そういえば、俺の名前を言ってなかったな…」
この片言のプロティア語にも大分慣れてきた。リフィーシュアは、赤い鼻を押さえて顔だけ彼の方に向ける。
「宇宙連邦軍特殊戦闘員デリスガーナー・レンティスという。よろしく」
改めて恭しく差し出された右手を、リフィーシュアは恐る恐る握り返した。
二人の握手を待っていたかのように、アスラの通信機が音を発する。印刷された通信文には、救助のために向かった艦が五分後に到着する、と書かれていた。