Gene Over│Episode1蒼き星と少女 01日常

 宇宙連邦第五宙域主星プロティア。
 四季の区別がなく、年間を通して温暖な気候を持つこの惑星は、昔から観光産業での発展が目覚ましかった。
 その日も、連邦に所属する他の惑星からたくさんの観光客を乗せた旅客船が、次々に首都メルテへ集中した宇宙港に入っていく姿が見られた。
 土産物屋の多い市街地を、様々な服装の、様々な言語を話す観光客が雑多に歩いている。
 楽しそうに歩いていく観光客の姿を見ながら、少女は街路樹の元に設けられたベンチに一人腰掛けて考え込んでいた。その表情は暗い。
 他の人々の楽しそうな声が耳に入る度、彼女の心はますます沈んでいった。空色の瞳を閉じて俯くと、長く柔らかい空色の髪が肩にかかった。
「何て言おう…」
 少女は目を開けると手元の紙に視線を落とした。一番上に少女の名前が書いてある。少女、セフィーリュカ・アーベルンは更に読み進め、最後にとある単語を目にした瞬間、思わず溜め息をついた。
―不合格―
 どうしてこんなに悪意がこもって見えるのだろう。セフィーリュカはそう思いながら紙を二つに折り曲げると勢い良く立ち上がった。ベンチの足元で休んでいた数羽の鳥達が驚いて飛び立つ。
「悩んでても仕方ないよね。…正直に言うしかないんだから」
 紙をバッグに押し込むと、セフィーリュカは雑踏の中を歩き出した。


「まったく、どうしてあの子はこうなのかしら…」
 民間短距離旅行者用運送業組合アウゴメアの登録航宙士であるリフィーシュア・アーベルンは、母星プロティアに観光のため訪れる客を自らが所有する旅客船アスラで運ぶ仕事を終え、久しぶりに帰った我が家の居間で母親の淹れてくれた紅茶を飲みくつろいでいた。ふと、机の上に置きっ放しになっていた妹の携帯端末が目に入り、そこに表示されている内容に思わずため息をつく。娘のためクッキーを焼き上げキッチンから運んできた母親、シオーダエイルはそんな娘を見て苦笑する。
 携帯端末に表示されていたのは、アーベルン家の末娘セフィーリュカの成績表だった。彼女は数日前、星間通訳として雇われるために受けた試験で、もとから不得意の数学で大失敗をし、見事に不合格の通知を受け取ったのだった。リフィーシュアが覗き込んでいる成績表の数学の欄には、真っ赤な文字で28点と書いてある。まさに赤点。しかも、この失態が一回目ならまだわかるが、彼女がこの試験を受験するのは二回目なのである。
「すごく落ち込んでいたから、あまりいじめないであげてね、リフィー」
 シオーダエイルがリフィーシュアに向かって優しく言う。リフィーシュアはもう一度溜め息をつくと、苦笑いしながら頷いた。
「わかってるわよ。でも…ここまで悪いとねえ。私とゼファーは得意科目だったのに…」
「私も、さすがに赤点は取ったことないわね…お父さんも、数学は得意だったし」
 つまりは、セフィーリュカはアーベルン家の中で異色なのである。
「でも、セフィーは私たちの誰よりも語学で優れているんですもの、別にいいんじゃないかしら?」
 優しく楽観的な母親はそう言って微笑した。リフィーシュアもその点では母親に同意する。
「だからこそ、正式に星間通訳になれないのが可哀相よね。通訳としての実力なら充分なのに」
 リフィーシュアはそう言ってクッキーを口に入れた。焼きたてで温かく、サクサクと歯ごたえがいい。母はとても料理が上手である。リフィーシュアにとってはそれが誇りであった。そういうリフィーシュア自身は、あまり料理には自信がないのだが。
 娘が自分の焼いたクッキーをおいしそうに食べているのを嬉しそうに眺めていたシオーダエイルは、紅茶のおかわりを淹れるために席を立つと、リフィーシュアに笑いかけた。
「あ、でもね、最近あの子、数学を習いに行っているのよ」
「へえ」
 リフィーシュアは目を見開いた。リフィーシュアの知っているセフィーリュカ、つまりはリフィーシュアがアスラに乗って仕事のため宇宙に出る前の彼女は、数学なんてわからなくてもいい、そんなものなくても生きていける、と言い張って聞かない人間だった。彼女がそう言っていたのは、一回目の試験の前日だったから、失敗して漸くことの重大さ―数学がなくては生きていけないということ―に気づいたのだろうか。
 なぜセフィーリュカが数学を理解できないのかと一言で言えば、彼女は数学という学問の根本が理解できていないからである。家族の誰もが彼女に教えようとしたのだが、なまじわかっているだけに彼女のわからない部分というのがわからないのである。確かにもっと噛み砕いて教えてくれる人間は必要であるかもしれない。
「あの子に教えられる人なんていたんだ?」
 姉ながらリフィーシュアはなかなか辛辣である。自分が教えた時に全然わからないと泣かれた、苦い思い出が蘇る。シオーダエイルは紅茶の入ったポットを持ってきながらくすくすと笑った。
「私とお父さんが軍にいた頃に、ちょっと訳ありで助けた子でね。大学を卒業して数学者になったって言うから、彼にお願いしてみたの」
 母の言葉にリフィーシュアは驚いた。まさに数学のプロに頼んだということなのだ。言われてみれば、何もかも知り尽くしているその道のプロならば、苦手な者が苦手と思う場所がわかるのかもしれない。
「さすがにまずいと本人も思ったのでしょうね。恥を忍んで一回目の試験の結果を持っていったのよ。そうしたら、あまりの出来の悪さにちょっと驚かれたみたいだけど…基礎から教えてやる、って言ってもらえたんですって」
「良い人で良かったわね。私なんて結果を見たとたん大笑いして泣かせちゃったのに」
「…お願いだから、今度はいじめないであげてね」
「わかってるってば!」
 シオーダエイルがポットを傾け紅茶を注ごうとしたので、リフィーシュアはカップの中の紅茶の残りを飲み干し、カップをテーブルの上に置いた。
 母が紅茶を注ぐ向こうで、壁に取り付けられたコルク板に飾られた家族写真が、外から吹いてきた優しい風に揺れていた。リフィーシュアはテーブルに頬杖をつき、窓の外、空の遥か向こうを見据えた。宇宙を見遣ると、自分と同様に宇宙で働く一つ違いの弟のことが思い出される。
「…ゼファー、どうしてるのかしらね」


「…ふえっくしょん!」
 宇宙連邦軍実動戦闘第五艦隊、通称『第五艦隊』は宇宙連邦にとっての敵対勢力である銀河同盟軍の領地潜入を防ぐため、宇宙連邦第一宙域所属惑星スミーテと、銀河同盟第十宙域主星ナリアの境界を哨戒していた。両陣営の対立はもう何十年も続いてはいるが今は小康状態にあり、互いの領地を侵略しあうこともなく表面上は平和な日々が続いている。
 第五艦隊司令、ゼファー・アーベルン大佐は艦隊旗艦ロードレッドの艦橋で、突然何の前触れもなく大きなくしゃみをしたことにより、艦橋内にいた全員の失笑を買ってしまうことになった。
 軽く咳払いをし、恥ずかしさで少し火照った顔を下に向けていると、第五艦隊副司令兼ロードレッド艦長のシェーラゼーヌ・コルサ中佐が、必死に笑いをこらえながらゼファーに歩み寄ってきた。肩まで伸びたパーマがかった薄紫色の髪を頭の後ろにバレッタで結い上げた女性士官は、ゼファーの緑色の瞳と目が合った瞬間、くすくすと笑い出した。
「副司令まで…笑わないでほしいな」
「す、すみません司令…でも、おかしくて…」
 シェーラゼーヌはすらりと背が高く細身の、艦隊の中でもなかなか美人と評判の女性である。ゼファーは自分のことを笑っているそんな部下を一瞥した。シェーラゼーヌは笑いがおさまると、優しい金色の瞳をゼファーに向けた。
「でも、笑い事ではないかもしれないですよね。風邪をひかれたのなら大変です」
 真剣な表情でゼファーの顔を覗き込む。ゼファーは、いつも控えめで、直属の上司にあたる自分を立ててくれるような彼女をつい年下に見てしまう。しかし、実際にはシェーラゼーヌはゼファーより四つも年上なのであった。
「いや、風邪じゃないよ。どうせ誰かが噂でもしているんだろう」
 ゼファーはそう言ってシェーラゼーヌに笑って見せると、艦橋の中央に設置されている巨大スクリーンに視線を移した。そこには第五艦隊の存在を示す青い光点、スミーテを始めとする宇宙連邦所属惑星を示す緑色の光点、そしてナリアを始めとする銀河同盟所属惑星を示す黄色の光点が表示されている。第五艦隊の展開する周辺には、銀河同盟軍、つまり敵はいないようだ。
「最近、妙に静かですね。何だか気味が悪いです」
 シェーラゼーヌもスクリーンを見遣る。静止している惑星群の間を抜けるように、青い光点が徐々に前進していく。
「何もないにこしたことはないよ。でも、プロティアへ帰還するまでは気を抜かずに行こう」
「ええ、そうですね」
 第五艦隊の哨戒期間はあと三週間。何事もなく無事に終了すれば、しばらくはプロティアの基地で休暇がとれることになっている。ゼファーはふと家族の顔を思い浮かべた。もう何ヶ月帰っていないのだろう。味気ない宇宙食ではなく、母の手料理が食べたい。そういえば、セフィーリュカの試験、どうだったのだろう。


「ごめんなさい!」
 扉が開いた瞬間、空色の髪を揺らして勢いよく頭を下げた。少女の声が空しく響く。
「………え?」
 彼女を招き入れるために玄関の扉を開けた青年は訳がわからず呆然と立ち尽くした。セフィーリュカは唇を噛み締めながら顔を上げると、バッグの中に押し込んでいた紙を彼に手渡した。細長い指で紙を捲り、無言で紙を開いた青年は下の方に赤文字で書かれた数字に目を止めた。
「ごめんなさい…お仕事の合間に色々教えてくれたのに…合格できなくて…。本当に、ごめんなさいっ…!」
 セフィーリュカは潤んだ瞳で青年に謝った。最近彼女に勉強を教え始めた数学者の青年は、彼女に手渡された不合格通知を金色の瞳で見つめ、何か納得したように一人頷くと、セフィーリュカの頭をポンと叩いた。
「良かったな。前回より十三点も進歩してるじゃないか」
「え?」
 セフィーリュカはぽかんと相手の顔を見たが、彼はワイシャツの胸ポケットからボールペンを取り出し、セフィーリュカが渡した紙に何やら書き込み始めた。
「いいか、前回出来なかったここの部分で今回は点が取れてる。即ち、ここまで前進したってことだ。次の改善点はこれを踏まえて…」
 そう言いながら彼はさらさらと紙に点数についての分析をし始めた。書き終わったものを見せられたセフィーリュカは思わず何とも返答できなかった。不合格通知が黒いペンで書かれた数字と図で埋め尽くされている。
「…難しすぎたか?いや、だからな…」
 簡易な説明をしようと彼がペンを指先で回した時、セフィーリュカは思わず微笑んだ。『不合格』という文字が、紙の下の方で肩身が狭そうに辺りを見回しているように見えた。漸く笑顔を見せた彼女を見て、青年も安心したように紙を彼女に返す。
「シェータさん、ありがとうございます。あの…お仕事の邪魔にならない時に、また教えてくれますか?」
 強い意志に輝く空色の瞳。それを見て青年、シェータゼーヌ・コルサは頷いた。
「ああ、いつでも来いよ」
 セフィーリュカは紙をきれいに折りたたむと鞄にそれをしまい込んだ。
 そう、諦めるわけにはいかない。
 星間通訳になるのは幼い頃からの夢。
 そして今はもういない父にも、必ずなってみせると誓ったのだから。
 ここで諦めたら、セフィーリュカはセフィーリュカでなくなってしまう。