Gene Over│プロローグ

 周囲を雑音が包む。
 雑音しかない。
 温かさも、冷たさも、痛みも、何も感じない。
―ここはどこ?私は、どうしてここにいるの?―
 彼女は問いかける。問いかけようとする。
 声が出ない。
 自分の声がわからない。自分の顔がわからない。
―お願い!誰か応えて!―
 声にならない叫びは数字に変換され、虚数空間を駆け抜ける。
 認識出来ない恐怖。
 認識されない恐怖。
 恐怖が全てを支配し、祈りをかき消す。
 暗い記録が記憶を書き換えていく。流れ込んでくる―。
―私はここにいるのに……私…ワタシ、ハ…―
 心に入り込むもの。全てを溶かしていく。
―…タスケテ…サビシイ……タスケテ……―
 言葉は信号になり、意識は電子に溶けてゆく―。


「これで、この星は救われた。新しい時を刻み続けることが出来るのだ」
 男の低い声が暗い部屋に響く。カタカタと音を立てていた機械が徐々に静かになっていく。空調の冷気が頬を撫でた。
「ただ、以前のような制御が難しくなりました。…本当に、これで良かったのでしょうか…」
 後ろに控える女が呟く。俯いた青白い顔に乾燥した髪がかかる。
「問題ない。Gene Over(遺伝子超越)など、最初から期待していない」
 未だ迷いを抱える女に背を向けたまま、男は言い捨てた。女は堪らず顔を上げた。
「長期的な安定制御を思えば、博士の提案を試す余地も…」
「くどいぞ、ドクリズ。あのような人形など、信用出来ないと言っている」
 女の言葉を遮り冷たく言い放つと、男は振り返った。碧い瞳が鈍い光を放っていた。
「それより、裏切り者の始末は済んだのか?」
 射るような瞳で見つめられ、ドクリズと呼ばれた女は通信機を気にするふりをして視線を外した。淡々と報告するが、心は震えている。
「…全員は無理かもしれません。ご承知の通り、部隊員の中にはプロティア優良種が含まれますので。また、同時進行中の同盟軍掃討に、予想外の時間がかかっています」
 叱責を恐れて小さな声で応えた女に、男は特に怒りを表すわけでもなく、鼻で笑った。
「プロティア優良種の返り討ちに遭うようでは馬鹿らしい。消すことが出来れば好都合だが、深追いせず放置して構わん。同盟軍の侵攻については、これ以上被害を増やすのは面白くないな。…私も出よう」
 男が踵を返すと胸元の勲章が揺れた。宇宙連邦軍の白い制服が部屋から見えなくなる。保安警察の制服を着た女は、一度だけ振り返り背後の機械を一瞥したが、すぐに男の後を追った。


 警報の鳴り響く通路を、二人は走っていた。赤みがかった金髪の年若い女が、杖をついた黒髪の老婆のもう一方の手を引いている。背後から複数の足音が聞こえてくる。
「(このままでは追いつかれる…)」
 走りながら、老婆は近づいてくる足音を気にせずにいられなかった。血のような色をした赤い瞳を背後へ向ける。老婆は自分が足手まといになっていることを知っていた。
 自分さえ捕まれば若い女は助かるかもしれない。老婆が手を離そうとしたとき、逆に女の方が手を離して立ち止まった。弾む呼吸を確かめ合うように、二人は互いに見つめ合う。
「博士…行って下さい。私が彼らを引きつけます」
 強い意志を持って、女は老婆にそう言った。左の目元の泣きぼくろが金髪の下に覗く。博士と呼ばれた黒髪の老婆は首を横に振った。息が切れてなかなか返事が出来なかった。
「何を言っているんだい…それはこっちの台詞だよ。私さえ捕まれば、お前さんは助かるかも…」
「いいえ。私は裏切り者です。運良く逃げ切れたとしても、私にはもう帰る場所がありませんから…」
 女はそう言って哀しげに微笑んだ。老婆は右手の杖を強く握り締める。女を裏切らせるに至った原因のひとつは、他でもない自分にあるのだ。
「しかし…」
「それに、博士ならきっと『彼女』を救えます。だから、その時が来るまで、生き延びなければいけないんです…絶対に…」
 女は老婆の皺くちゃになった手をそっと握った。
「『あなた達』に会えて…良かった。コアを、頼みます」
 呟き、名残惜しそうにその手を離すと、彼女は振り返り駆けて行った。
「……わかった…私は、生き延びてみせるよ。そしていつか必ず…」
 老婆は汗ばんだ手で杖を握り直すと、女とは反対の方向へ走り出した。


 一体、どれほどの時間が経過したのか。
 手に残るわずかなぬくもり。
 でも、自分以外の息遣いはどこにも感じられなかった。
 体を起こそうとする。全身がひどく痛んで無理だった。
 血に濡れた宇宙連邦軍の制服。乱れた紫色の髪にも血の塊がいくつもこびりついている。
 遠く、足音が聞こえる。
 不意に抱き起こされ、頬を叩かれた。
「――――」
 聞き慣れた仲間の声がする。自分の名を呼んでいるようだ。彼女は薄く目を開ける。やはり見慣れた仲間の姿だが、彼の姿はもやがかかったように霞んで見えた。何度も名を呼んでくれるのだが、その声も耳に膜がかかったかのようにくぐもって聴こえる。
 仲間が彼女をそっと抱き上げ、軍服のポケットから通信機を取り出して何やら叫んだ。「脱出」という単語のみかろうじて理解出来る。
 彼が彼女を抱えて通路を歩き始めたとき、彼女は霞む視界の中に瓦礫に埋まった扉を認めた。
「………」
 何だろう。何かを感じる。
 でも、思い出せない。何も、考えられない―。
 気付けば、意識が混沌に落ち込み、何もわからなくなっていた。
「―」
 意識が途切れる寸前、愛する人の声を聞いた気がした―。


 ―宇宙暦二二一九年。
 数多の命の運命が、この時を境にゆっくりと動き出す―。